俺と鬼と賽の河原と前さんトリコロォル。









 朝目覚めたら、彼の顔が目の前にあった。

 お世辞にも綺麗とは言い難い、緩みきった顔だった。

 人の気も知らないで……、と心の中で溜息混じりに呟く。

 そしてあたしは、目の前のアホ面をどうしてやろうかな、なんて考えたあたりで――。


「え……? 薬師? なんで……、ええ!?」


 自分の状況の異常性に気がついた。

 確か昨日は仕事に行ってて、いつも通り薬師に会って、その後……、その後から、どうしたんだっけ。

 それで、気が付いたら何故かあたしは薬師の腕枕で寝てて……、ええっ? これ、どういうこと……!?

 よ、酔った勢い!? あ、でも二日酔いじゃないしそれは無いかも。あたし一口でもだいぶダメだし。

 じゃ、じゃあ、薬師が襲って……、それはないか。薬師だもん。

 じゃあどういうこと!? な、なにがあったの!?

 そして、あたしが混乱させている間にも薬師はアホ面下げて眠っていて。

 混乱の極みに達したあたしが金棒を振りまわしてしまったのは、仕方ないと思う。














愛情の赤。













「えー……、とだな。前さんが倒れたらこうなった訳だ」

「掻い摘み過ぎて何言ってんのかわかんないんだけど」

「倒れる、河原を早退、一人じゃ危なげ、とりあえず連れて帰る、気が付いたら寝てる」

「大体わかったけど……。じゃあ、迷惑かけちゃったかな?」

「いんや、大したことねー。慣れてる」


 苦笑気味に薬師は笑う。

 慣れているっていうのは、その、あれなんだろうか。憐子さんとか、にゃん子ちゃんとかが……。


「どした?」

「ん? なんでもない」

「大丈夫かね? 本当に」


 昨日のあたしはよっぽどぼんやりとしていたらしい。

 心配そうにのぞきこむ薬師に、あたしは笑って答えた。


「大丈夫大丈夫、昨日はちゃんと寝れたみたいだからっ」


 あたしの答えに、薬師はひとまず安心したみたいで、そいつは良かった、と呟いて襖を開けた。


「ところで、睡眠不足って、そんなに忙しいんか? 最近」

「まあ……、それもある、けど」


 乙女には、不安で眠れない時もあるんですー、っていっても薬師の事だから頓珍漢な答えしか返ってこないんだろう。

 そんな彼だからいいのであり、たまに憎々しくもあり。


「最近暑いからね。しかもクーラー壊れちゃって修理待ち」

「あー、なるほどな」


 言いながら、彼は通路に出て階段を下りていく。

 あたしもそれに倣った。


「さって、藍音、飯は……、できてるな」

「食べてもいいの?」

「一人分多いから食べてもらわんと困る」


 ところで、なんでこんなにほうれん草料理が多いんだろう。

























「そいや、俺今日休みだけど、前さんは?」

「あたしも」


 あたしの仕事は別に薬師の担当だけって訳でもないけれど、それでもメインの仕事は薬師の担当だから、薬師が休みだと私が休みなことも多い。

 だから、これから暇なのだけれど、どうしようか。


「あー、どうせだったら今日も泊まっていくといいんじゃないか?」


 唐突に薬師が声を上げ、あたしは間抜けな声を上げる羽目になった。


「へ?」

「クーラーが壊れたんだろ? うちにはんなもん存在しないが、扇風機位ならあるぞ?」


 どうやら、しっかりとあたしの部屋のクーラーが壊れたということを信じているらしい。

 薬師は極端に鋭い時と鈍い時がある。察してくれなくてもいいことはどんどん察してくれるのに、察してよ、と思うことはまったく眼中にもないのだ。


「え、あ、でも、迷惑だし、別に一昨日が寝にくかっただけで……」


 確かに好きな人の家に泊まるっていうのは憧れるシチュエーションかも。

 だけど、あたしも女で、その、好きな人の家に泊まるといのは、やっぱり覚悟がいる。

 流石に心の準備はさせて欲しい。

 だけど。


「ぶっちゃけるともう人が一人泊まる位今更だろ。元家なき子が住み着いている様な話だしな」


 さらっと、薬師は言う。

 ただ、少しだけあたしの心はざわついた。

 そう、今更な位この家には人がいる。しかも魅力的な女の人が。

 そんなことをさらりと言う薬師に、少しだけちくりと心が痛む。

 人の気も知らないで……。まったくもう。


「うん、でもほら……」


 なんて言って断ろうかな、と考えて、口を開こうとした矢先、別の声が響く。


「既にあらゆる準備が終了しておりますので」


 メイドさんだ。クールで……、その、なんていうか胸が……、胸があたしと違って……。

 いや、そんなことは関係ない、とあたしは首を横に振る。


「ほうれん草も買いこんでしまいまして、食べていって貰えると助かります」

「よくやった藍音」


 ナイスアシスト、とばかりに薬師が彼女に向かって笑みを向けた。

 当然です、と彼女は去っていく。

 むう。この二人の関係にちょっと嫉妬。うらやましい。


「ってことで、泊まっていってくれると助かるそうだが」


 やっぱり、人の気も知らないで。


「わかった、じゃあ、お願い」

「おう、まあ、どちらかと言うと礼は俺より藍音だよな」

「あ、そうだね。結局薬師何もしてないんじゃ」

「黙らっしゃい、俺は家主だからいいんです」

「亭主関白してると、その内愛想尽かされちゃうかもよ?」

「む、それは参るな」

「でしょ?」

「まあ、だがあれだろ。前さんの調子が悪いのも困るからな」


 はっはっはと笑って、薬師は言う。

 ……病人だったからだろうけど、それって、優先してくれたってことなの?

 台詞を深読みし過ぎてあたしは困ってしまう。恋愛感情なんて薬師には微塵も存在しないことはわかっているのだけれども。


「心配してくれてるの?」

「とーぜん。大切な前さんのためなら大抵のことはしてやんよ」


 あっさりと薬師は言った。

 あたしは、思わず固まってしまう。

 どんな台詞も、薬師はあっさり言うから、あたしがぎくしゃくしてしまう。


「そ、そっか」


 人の気も知らないで。とあたしはまた、呪文のように心で唱えた。























 そうして、薬師の家に泊まることになったあたしだったけど、常に薬師とべったりという訳でもなく、でも、お客さんだからいまいち落ち着かない状況で。

 なんとなくあたしは庭に出てみることにした。

 きっと誰もいないと思っていたけれど、そこには薬師の信頼するメイドさんの姿があった。


「……どうかしましたか?」


 洗濯物を干しながら、彼女はこちらを見る。

 あたしは取り繕うように手を振った。


「あ、気にしないで、なんとなく暇だっただけだから」

「そうですか」


 言って、彼女は洗濯ものを干す作業に戻る。すごくて慣れていて、年季を感じさせる手つきだった。


「ねえ、メイドさんとは結構会うけどさ」

「そうですね、お客様の応対は私がしますので自然と」

「こうして、話すのは初めてだなって。メイドさんは――」


 あたしの言葉は、途中で遮られた。


「藍音で構いません」

「あ、じゃああたしも前で」

「はい」


 お客様とか前様とか呼ばれるのは慣れていなくって困っていた所だから丁度いい。

 あたしは縁側に座って。藍音は洗濯ものを干しながら。


「でさ、藍音は薬師のこと、好き?」

「愛しています」


 即答されてしまった。聞くのは結構勇気が要ったのに。

 ただ、あたしはそれを、


「羨ましいなぁ……」


 と、思った。


「なぜでしょう」


 惚けた顔で、というかまったくの無表情で、藍音はそれを質問する。

 そんなのは決まってる。


「薬師の傍に居て、信頼されてて、そんな風に愛してるなんて胸を張る。そんな辺りが羨ましいなって」


 だが、


「私は貴方が羨ましいですが」


 と彼女は呟いた。


「なんでさ」

「貴方と薬師様の距離は程良いと考えます。私とあの人は少し近すぎるのです」


 それでも、あたしには藍音が羨ましく思えるけどなー。

 でもそれってやっぱり。


「要するに隣の芝は」

「青いということですね」

「やっぱり」


 あたしと彼じゃ遠すぎると思うし、藍音は彼と近すぎると言う。


「難しいね」

「……その通りです」


 結局、お互いあんまり変わんないんだなー、と思ったら、ちょっとだけ連帯感。


「一緒にがんばろっか」

「いいのですか? 私とあなたは所謂ライバルですが」

「……じゃあさ、落とせると思う? 一人で」

「……ノーコメントです」


 あ、でもやっぱちょっと羨ましい。薬師のことよくわかってる。



























 その後。

 藍音とわかれて、あたしは薬師を探してみることにした。

 ちょっとだけ一念発起して、あの鈍感をちょっとくらい困らせる様なアタックを仕掛けてみようかな、なんて思ったのだけど。

 だけれども。


「……寝てる」


 穏やかに、健やかに、なんかにやけ面で楽しげに、彼は寝ていた。



 ――ああ、人の気も知らないで。



 顔が笑みに歪んでいくのを抑えられない。

 結局これだ。そう、これはあれだ。

 惚れた弱み。

 そもそも、恋愛ごとなんて微塵も興味なくて、わかってなくって、わかってほしいことがわからなくて、わからなくていいことばかりわかって、それでも、わかって貰わないといけないことだけはわかってくれる、そんな彼に惚れたのだ。


「ふふっ、人の気も知らないで。呑気なもんだね」


 愛しさが込み上げて、笑みがこぼれる。結局こんな薬師に惚れたのだから、なんだかんだいって、このままで居て欲しいとすら思う。

 あたしは、わざとらしく溜息を吐くようにして、藍音の元に向かった。







「ねえねえ、タオルケットとかないかな?」







 まったく、薬師は仕方ないんだから。人の気も知らないで、ね?















黄へ。