俺と鬼と賽の河原と。
先生が死んで少し経った後のこと。
俺は、猫を拾った――。
「……汚え猫だな」
薬師昔話 猫の話。
灰色の子猫だと思っていたら、洗ってみると黒猫だった。
「お前さん、ほんと汚かったんだな」
風呂場で腕まくり、桶の中に猫を突っ込みじゃぶじゃぶと洗うたびに、埃色の毛が本来の黒を取り戻していく。
その間、猫はひたすらに暴れていた。
鳴き声はにゃあ、などと生易しいものではなく、もっと激しく耳障りなものだ。
結果として、俺の腕は傷だらけとなる。
「あんまり暴れんなよ。取って食っちまうぞ?」
途端、暴れる猫は借りて来た猫となった。
言葉がわかっているのかいないのか。
不思議なこともあるもんだ、と考えながら俺は手を動かす。
不思議と言えば、俺もそうだ。
なんでこんなことをやっているのだか。
猫を拾って腕を傷だらけにしてまで洗っている。
我がことながら、まったく意味不明だ。
「物好きだね、俺も」
石鹸は使わないからどんどんと水が汚れていく。
わざわざ野生に返すことまで考えているんだから、病的だ。
そうこうしている間に、猫はその色を完全に取り戻した。
風呂場から放り出し、猫が身震いしようとする前に、俺は手拭を放り投げた。
「暴れんなっつの」
呟きながら手荒く猫の体を拭いていく。
途中、ぎゃ、とかみぎゃ、とか聞こえてきたが聞こえない振りをした。
体を拭き終われば次は食事だ。
「ほれ、好きに食えよ」
鰹節をご飯にぶっこんで混ぜただけの物を、皿にのせて猫に出す。
猫はと言えば、なんだこれはと言ったように、鼻を飯に着けて一度顔をしかめる。
そして、それが食べ物だとわかるや、その小さな口で必死にそれを食べ始めた。
俺は必死だな、とそれを薄ぼんやりと眺めた。
生きるのに必死なら、それはそれで楽だろう、と思う。
余裕があるから余計なことまで考える。それが幸せかどうかは完全に別物になってしまう。
俺はなまじ強いから、無駄が多すぎる。
「お前さんは楽か?」
俺は猫に問い、途端に馬鹿馬鹿しくなった。
「聞いても詮無きことさな」
呟くと、猫は一つ、にゃあ、と鳴いて返した。
それが俺と猫の最初の一日だった。
猫は、実に無邪気だった。
俺の仕事用の書類、ああ、その頃は紙が手作りだったので木の板から和紙までが混在していたのだが、それを容赦なく引っ掻いたりしていく。
「まったく、ああ、まあ、そらそうさな。猫に知性や常識を求めたって実に仕方のないことだ」
俺は肩をすくめると、ボロボロになり、見る影もなくなった言葉の残骸たちを纏めて捨てる。
実に、無邪気で、馬鹿だ。
しかし、馬鹿かと思えば、知性の欠片を見せることもある。
書類が破られてしまえば、山の運営に関わるのではないか、と思うものだが、問題はそこだ。
俺がこうして諦めているように、今猫が破いたものは全て大したものではないのだ。
複製してはいけないようなものもないし、急ぎのものもない。大抵はただのどうしようもない陳情書だ。
「お前さんは字が読めるのかね?」
問うてみれば、床の猫は首を傾げ、なぁと鳴いて見せる。
まるで構え、とでも言わんばかりだ。
果たして、なんとなくわかっているのか、字が読めているのか、それとも野生の勘か。
まあ、どれでもいい。
ただ、まあ、猫がうっかりと墨をこぼしてしまった。
こうして、うっかりと呼べるほどたまにしか墨など落として困るものを落とさないことや、本気で忙しい時にはしないことなども、やはりわかっててやっているのではないか、と思わせる一部だ。
「手拭、いや、雑巾か」
猫は元から墨みたいな色をしているから気にならないが、しかし、机の上は少々困る。
雑巾は俺の執務室にはない。
ちなみに、移動が面倒なので俺の居住用の部屋は執務室から扉を挟んですぐだ。
故に、そちらに行こうとしたのだが。
「んん? どうした猫」
俺のズボンの裾に、猫が噛みついている。
その瞳が、不安げに揺れている……、気がした。
「別に。雑巾取ってくるだけだ。怒ったからって煮て食おうとは思わんよ」
猫に向かって言葉を向ける大天狗、というのも実に怪しい光景だ、と、我ながら思うが、周りは勝手に使い魔だとかと納得してくれているので問題はない。
大天狗の飼い猫がただの猫なわけが無いっ! だそうだ。
俺も逆の立場だったらそう疑うし、そちらの方が都合がいいから訂正しない。
ともあれ、隣の部屋から雑巾を持って戻ってくる。
すると、猫はまるで借りてきた猫の様に大人しくなり、殊勝な態度を見せていた。
心なしか肩、と呼んでいいのか分からんが、前足の付け根の部分が沈んで見えなくもない。
いつも、他の天狗が居ると、肩まで落としはしないが、こうなのだ。
そんな猫に、苦笑い一つ。
「こっち来いよ」
すると、猫はにゃあと一つ鳴き、走り寄る。
「ついでに拭いてやるから」
瞬間、反転。
猫は一瞬にして雑巾の魔の手から逃げ出した。
やはり賢い。
そんな猫に苦笑を一つして、俺は普通の手拭を投げてやった。
「後で拭いてやる。ちょいと待っとけ」
すると、すぐに猫は俺の胸に飛び込んでくる。
俺はたたらを踏む羽目になった。
「あ、おいっ、後でっていったろうっ」
ああ、どうしよう、墨が付いてしまったじゃないか。
笑いながら、そんなことを考えていた。
それから、ずっと、年が二桁に至る程の時を猫と過ごした。
最近に至って、猫は更に頭がよくなったように思う。
「さて、筆はどこだったかね」
そう言って椅子に座ると、とん、と音が響き、猫が筆を加えて机に乗っていた。
「ありがとさん」
言うと、猫はにゃあと返して、満足げに俺の膝に乗る。
なんだか、こんな毎日だ。
ただ、まあ、一人でいた頃より、ずっといい。
一人では寂しくて死んでしまう、などとは言わないし、言えないが。
しかし、一日口も開かないのは実に日常に張り合いがない。
その点、この猫はよくやってくれている。
などと、猫に言っても仕方のないことだが。
俺が書類の整理中に、猫は安らかに寝ていた。
「まったく呑気だな」
と言ってみれば、猫は起きてなあと鳴く。
そして、ぺろりと俺の頬を舐めた。
「なんだよ。まあ、好きにすればいいけどな」
にやりと笑って、俺は書類に筆を走らせていく。
この猫は、なんというか、よくわかっているのだ。
放し飼い同然で、俺がいない時はすぐに外に出ているのに、俺が帰ってくるといつの間にかひょっこり戻ってきている。
そのありように、一言言ってやりたい気もするが、でも別にいいだろう。
退屈はしないのだ。
なんとなく書類に筆を走らせても、すぐに月が昇って行く。
この時代、明かりなんて大したものが無いから、燃料の節約とばかりに、俺は早い所寝ることとする。
先生の時代は寝台があったが、俺は気に食わないので煎餅布団だ。
布団に入って、目を瞑るのだが、不意に鼻の奥がむずがゆくなった。
「ふぇっきしっっ!」
寒い。
季節がら、そして山だから仕方がないが、実に寒い。
布団が温まるまで寒いままだな。
と、思って諦める。
だが。
にゃあ、と一声。
「猫。お前か」
眼前に居る猫が、笑った気がした。
器用に猫はするりと布団の中に入って来る。
あっさりと、顔だけ出して、横になって寝ている俺の胸元付近に鎮座した。
「暖かいな。ああ、温かいな」
呟いて、目を瞑る。
そして、手を動かして猫を撫でた。
なんとなく、ずっとこれが続く気がしていた。
だがしかし。
別れはあっさりとやって来た。
ある日、机に登ろうとした猫が、あっさりと足を滑らし落ちたのだ。
無論、死ぬわけはない。
だけど、わかった。
ああ、もう駄目なのだなぁ……、と。
「猫、大丈夫か?」
なにが、とばかりになあ? と鳴く猫に、俺は苦笑を向けた。
よく考えてみれば、大妖怪ほど別の生き物と生きるのに向かない生物はない。
普通の生き物には寿命があるし、そして、同じ妖怪だって死ぬ時は死ぬ。
だから、死なない大妖怪は孤高を気取るのだろう。
なんとなく虚しさを感じた俺の膝に、猫は飛び乗った。
そして、撫でろと言わんばかりに猫は俺を見上げる。
俺はその命令に、諾々と従った。
柔らかな毛並みを手で溶かしていく。
ああ、いつも通りだ。
実にいつも通りだ。
猫は、いつも通りで居ようとしている。
そして、ある日、猫は俺の前から姿を消した。
よく、死ぬ時に動物は人知れずひっそりと死ぬ。
多聞に洩れずきっと猫もそうなのだろう。
だが、ここは俺の山だ。
見つからないはずがない。
だから、俺はふらりと外へ出かけた。
猫の死に場所まで――、歩いて、実に二刻も掛かった。
あんなよぼついた体で、そんなに歩いたのか。
と、俺は苦笑する。苦笑でもしなければ、ともすれば涙が零れ落ちかねないかとも思った。
思うだけで、俺の涙腺は決して雫を流すことはなかったが。
そうして、俺は猫の亡き骸までたどり着く。
ただ、多分見られたくなかったろうから――、俺は木の幹の向こうに行こうとは思わなかった。
そうして、俺は麓で猫が倒れている木に背を預けた。
木を挟んで背中合わせ。
悲しい時は泣いていい、とよく人は言うけれど。
いつもいつも騒がしいまで鳴いていた猫に向かって俺は笑おう。
いつか訪れる絶対の別れに向かって笑っていよう。
俺は、煙草を一つ咥え、火を付けた。
そして、不敵に笑って告げる。
「その内化けて出て来いよ。そんときゃ酒でも呑もうじゃねーか」
酒が口に合わなきゃ油でも用意しよう。
「待ってるぜ。暇だけは幾らでも持ち合わせてるんだ。なあ――?」
猫の名前を呼ぼうとして、俺は猫に名前が無いことを、この時初めて気が付いた。
ちり、と煙草の灰が風に掬われ舞っていく。
そうだな……。
「次会ったら名前をやろう。お前に似合う名前を考えてやろう」
一晩位なら、悩んでやるよ。
くく、と喉を鳴らして、俺は煙草を投げ捨てた。
「――じゃあな」
もしかしたら、その内どっかで会えるかもしれん。
そうして、その後俺は藍音を拾うこととなる。
「おい……、お前さん、なんだお前さん、気狂いか?」
ああ、連れて帰ろうとしてるのはきっと。
猫のせいだろう。
―――
という訳で薬師昔話、猫の話でした。
もしかすると化けて出るかもしれませんね。
実は一行くらい本編に登場してるかも知れません。