薬師大天狗奇譚










「は? 頭が良くなる薬?」


 何を馬鹿な、と畳の上の天狗は言い切った。

 対する女、美香は身を乗り出すようにして、言うのだ。


「はい。最近江戸に出回っているのです。そういう薬が」

「で? 飲んだらどうなるんだ?」

「名の通り、頭が良くなるそうで」


 真顔で言う美香に、薬師は苦い顔をした。


「俺に飲めってか?」

「違いますよ」


 美香は、ごまかすように首を横に振る。

 そして、人差し指を一本、立てた。


「いいですか? まず最初に、頭の良くなる薬。効能ははっきりとわかったわけではありませんが、そのような薬が市場に出回っているそうです」


 薬師としては――、

 いやな予感がひしひししてきた。

 今すぐにでもこの場を逃げ出したい。

 と考えるが、既に手を掴まれている。

 時は既に遅かった。


「あー……」


 薬師は、曖昧な声を上げる。

 そして、諦めることにした。


「そこまで言っといて効能がはっきりわからないってのはどういうこった」


 口にした質問。


「それはですね」


 そう、その質問は、美香の持ってきた事件に首を突っ込む意思表示になりかねない。







「飲んだ人間全てが消えているのですよ」









 いや、なった。
















思考迷宮奇譚












     一



「で? 頭が良くなる薬だって?」

「はい。一粒飲めば頭が冴え渡り、悟りが開け、この世を知る、などと実しやかにささやかれています」

「だが、服用者は全て死んでいる、と」

「ええ、怪死を遂げているそうで。失踪か死か、どちらかです」


 降りてきた江戸は、相も変らぬ活気がある。

 その裏でこんな不可思議なことが起こっているとは思えないものだ。


「私としては、この薬を使ってよからぬことを考えている者がいるのではないかと思っています」

「まあ、妥当な線だな」


 肯いて、薬師は江戸の町を歩く。

 しかし――、


「で、これからどこに向かうんだ?」

「は? 薬師殿が何か考えているのでは?」


 二人に何の方向性もありはしなかった。


「いや、俺はお前さんが何か考えて動いてるのかと思ってついてってるんだが」

「いえ、私は薬師殿に考えがあると思って、隣を歩いているのですが」


 互いが互いについていく、という奇妙な状況。

 二人はただ、町を歩いているだけだった。


「俺はさっき話を聞いたばかりだからな? 対策の立てようもないぞ」


 お手上げだ、と言わんばかりに肩をすくめる薬師。

 美香もまた、言われてみればその通りだ、と納得した。


「ええとですね。何か聞きたいことはありますか?」


 いまさらながら、人差し指をあごに当てて一考の後放たれた言葉に、やる気なく薬師は返した。


「そもそも、どこに落ち着けようってんだ? この話を」


 別に、被害者が居るわけではない、もとい、被害者が生きているわけではない。

 今も狙われている人間がいるならば守ることもできるが、そう言った事件でない以上は、薬師たちの介入、それそのものが難しい。


「服用者の死亡についての追究。必要なら販売の停止ですね」


 美香はあっさりとそう口にした。

 やれやれだ、と薬師はわざとらしく溜息を吐く。


「簡単に言ってくれる。だが、まああれだな」


 方針は定まった、と彼は美香に言葉にした。


「とりあえず、販売者をとっ捕まえれば、うまくいけば全部片付くだろ」


 販売者を捕まえれば、販売停止は容易。

 更に、売った本人から、効能について話を聞くことができる。

 捕まえられれば、という但し書きは付くが、もっとも効率の良い方法であった。


「しかし、どうしたものでしょう」

「なにがだ?」


 困ったように声を上げる美香に、怪訝そうに薬師は問いを発した。

 そして、美香は言う。


「売人の居所は依然として不明なのです。接触の取れる服用者が死んでしまったものですから、聞き込みもままなりません」


 死人にくちなしとはまさにこのこと。霊は存在するが、大概すでにこの世を離れているか、話もできないほど壊れているかのどちらかだ。

 結局、手がかりがない。

 そんな状況に、薬師は溜息を一つ。


「あー。遺族でも漁るか。話の一つくらい聞けりゃいいが」

























 訪ねることに成功したのは、寅田という老夫婦だった。

 息子夫婦が、薬を飲み、失踪を遂げたのだと言う。


「それまでは、なんかそう言ったことを匂わせるようなことは?」


 美香は、座敷の座布団の上に座って、向かい合う老夫婦に質問した。

 薬師は、立って後ろを向いている。

 こういう仕事は美香の仕事だ、と薬師は勝手に心に決めた。


(むしろこれくらいしてもらわんと割に合わん)


 のである。


「いえ……、まったく。夫婦睦まじく、件の薬だって、二人で仲良く分けて飲み、私たちに楽をさせてやる、と」


 老婆が、悲しげに呟く。

 美香は、沈痛な面持ちになるが、えぐっているのは自分だ、と思い直し、続ける。


「薬を、どこで買ったか聞いていませんか?」

「いえ。何もいっておりませんでした。ただ、親切な女性から頂いた、と」

(女、かもしくは女に化けてるか。そんな妖怪いたかね。妖怪じゃないやもしれんな)


 薬師は思案する。

 もとより、これは美香が言ったことでもある。

 美香が質問を行い、薬師が思考に集中する。気になることがあれば、話に参加すればいい、と。

 異論もない。薬師は思考に集中する。


「そうですか。他に何か、手がかりになりそうなことはありますか?」

「いいえ、特には」

「そうですか、ありがとうございました」


 そう言って、美香は立ち上がった。

 確かに、これ以上ここにいても有益な上方は手に入ることはないだろう。

 美香は歩き出し、薬師もそれに続く。

 そうして、二人はその家を後にした。


「……有益な情報は得られませんでしたね」

「そーだな。あっさりといっちまっても困るといえば困るわけだが」


 呟いて、何事かを考えるように空を見上げる薬師に、美香は語りかける。


「そういえば、結局何の目的で薬を売っているのでしょうか」


 薬師は、空を見上げていた視線を、隣の美香に移して、もう一度思案するように視線を漂わせた。


「親切心、はねえだろうよ。金も取らずに頭の良くなる薬なんぞを配る親切な女。本当なら聖女様だが……、大なり小なり、そこにゃ下心があるもんさ」

「ですよね……、でも一体それで何をしようというのだか」

「そもそも、頭の良くなる薬ってのが謎だな。集客効果は如何程か」


 何らかの目的があるにせよ、頭の良くなる薬よりも、いっそ酒だとでも言ってしまったほうが多数の人間を誘えるはずだ。

「頭の良くなる薬じゃ、馬鹿しか集まらんと思うわけだが」


 頭がよければ暮らしも良くなる、と単純に考える者しか集まらぬ、と薬師は言う。

 逆に勉強しているものならば、そんな眉唾な話があってたまるか、何のために努力しているのかと切って捨てよう。すがるにしても極少数。

 そして、立場のあるものならば、手を出しもすまい。知恵などなくとも程よく生きていけるのだから。買うとしたら物好きが興味本位というところか。

 果たして、何故こうも効率の悪い方向で行くのか、と疑問を示す薬師に、美香は思いついたように口に出した。


「ことを荒立てたくない、のでは?」

「なるほど? 暫く続ける必要があるなら有り得るな」


 確かに、突然多数の人間が死ねば、もしくは大名なりでも死んでしまえば幕府も動くだろう。

 それが不都合だというのであれば、頷けるといえば頷ける。捜査されてはやりにくい事柄なのかもしれない。

 それに、これなら大概死ぬのは農民などの身分の低い人間だ。お上は気にせず、薬売りの女とやらは安心して商売を行える、と。


「果たして、実験でもしているのでしょうか……?」


 思案顔だった美香が呟いた言葉に、薬師は美香を見る。


「どういうことさね」


 美香は、薬師の目を見て答えた。


「薬を飲んで、死んだ者は駄目、生きている者は攫っていく、というようにふるいに掛けているのでは?」

「ああ、有り得るな。その線が妥当かね。すると、その先何に使うのかが問題だが」


 薬を飲んで尚生きている者を攫い、何かに使う。有り得る話だ、と薬師は頷く。


「だが、どうやって探すかが問題だな」


 そして、薬師は呟いた。

 手がかり無し。これが問題だった。


「手がかりもありませんね。一旦帰りましょうか?」

「そうだな。無駄に歩き回るよかましかもしれん」


 作戦を練ろう、と一旦拠点である美香の家に戻ろうと二人は歩き出す。

 相変わらず、活気のある江戸は、人が消えているなどと思えないほどにいつもどおりだった。

 色々な人間がそこを歩いている。飛脚、町人、魚売り、商人、坊主。


「ん……? あの坊主……」

「どうしました?」

「いや、なんでもない」





















     二



 翌朝。その日もまた二人は江戸の町を歩いていた。

 結局、会議をしたところで、地道に聞き込みをするしかないという話になったわけだが。


「だが、あれだな。どうやって買う奴らは薬売りにたどり着くんだ?」


 ふと、薬師は素朴な疑問を口にする。美香は、思い出すようにしながら答えた。


「噂では、求めるものの前に現れるとか」


 それだけ聞けば、眉唾な話である。

 どうしてそれで現れる道理があろうか、と普通なら一笑に付すものであったが、薬師にはそういった店を知っている。


「下詰式か……、厄介だな」


 下詰神聖店。その店が必要な者の前に店舗が現れるいかがわしい店である。

 それと同じであれば、必要に応じて遭遇することができる。


「頭が良くなりたいと願っていれば現れるものではないのでしょうか?」

「いいや、下詰と一緒なら、嘘っぱちじゃ、決して現れんよ。お前さんも俺も、大して頭良くなりたいとは思ってないだろ?」

「たしかに」


 しかし、必要に応じて遭遇するということは、必要がなければ確実に遭遇し得ないのだ。

 これでは、薬師と美香では早々発見するのは難しい、と思わず薬師は溜息をつく。

 ふと、そんなときである。


「頭の良くなる薬について探っているというのはあなた方でごぜえましょうか?」


 手がかりは意外なところからやって来た。








「そんなに目立っているか?」


 美香の問いに、町人は自信満々に頷いた。


「ええ、ええ。そうですとも。妙な格好のでかい男が一人、美人の女武芸者が一人、と来ればもう一目でわかりまさぁ」


 確かに、この時代に腰に刀を差した女武芸者など、早々居はしない。

 そして、背広の男もまた、非常に目立つ格好ではある。

 あえて目立ち、こうした民間からの触れ込みも当てにするつもりではあったが、こうもあっさり行こうとは。

 薬師は心中瞠目しつつも、町人の次の言葉を待った。


「あなた方、そう、噂の悟仙丹について調べてらっしゃるそうで」

「ん、そうだ」


 町人の言葉に美香が頷く。悟仙丹とは件の薬のことだ。


「実は、最近悟仙丹をもらった男がいるんでさぁ」

「なんだと?」


 俄かに、美香の目が見開かれる。

 町人は占めたとばかりに笑った。


「この情報に、いくら出しやす?」

(美香め、あっさり隙晒しやがって……、こりゃふっかけられるぞ)


 やりやがった、とばかりに薬師は頭を抱えた。

 美香は思案顔。

 そして、薬師の方に振り向いて、一言。


「薬師殿、今私持ち合わせがないのですが」

「……おい」


 頭が痛い、とばかりに薬師は溜息をついた。


「なあ、何で俺があっさりお前さんについてきたと思う?」

「正義の心に目覚めたとか?」

「おあしが切れてんのさ」


 ない袖は振れねー、と薬師は肩を竦める。

 途端に美香は困り顔になった。


「どうしましょう」


 そんな美香に、町人はにやにやと笑っている。

 薬師はそんな二人を交互に見て、もう一度溜息。


「仕方がない。ちょっとお前さん、こっちに来い」

「へぇ、なんでしょう」


 薬師はいいながら、建物の隙間。いわゆる路地裏へと足を進める。

 町人も続き、その後に美香が続いた。

 そして、なにをするのかと皆が立ち止まったその瞬間。


「商魂逞しいのはいいが、相手は選ぶべきだ」


 如意ヶ嶽の大天狗が姿を現した。

 黒い翼に金の錫杖。高下駄は地面から浮いており、それを見た町人は大層驚き、腰を抜かす。


「て……、て、て、天狗っ」


 尻餅を突いた町人に、薬師はにやりと笑った。


「まあ、そう怯えなさんな。別に命取ろうってわけじゃない。ただ、見せとかないと納得してもらえんだろうからな」


 途端に緊迫した空気が霧散し、町人は狐につままれたような顔をする。


「へ、へえ……」

「まあ、俺もこれも金を持ってねーわけだ。だが情報は欲しい」

「はあ」

「だから、これをくれてやろう」


 言って、薬師は懐から細長い棒を取り出した。

 黒く、三寸くらいの棒である。


「天狗の筆だ」


 にやりと、今一度薬師は笑みを深めた。


「筆? こ、これが?」


 驚いた顔の町人に、薬師は棒の先からまるで鞘のようなものを抜き取り、町人の手のひらに棒を走らせた。


「う、うわっ」


 町人は一体何の儀式だとばかりに怯えて手を引っ込めた。

 小心者め、と薬師は呟いた後、引っ込めた手を指差す。


「そう驚くな。手、見てみろよ」


 薬師の言葉に従い、町人はまじまじと自分の手を見た。

 そこには黒い線。

 筆には見えない、謎の黒い棒から、考えられないほど細い線が走っている。


「自慢ができるぞ、それは大層。天狗にもらった不思議な筆だ。売れば一財産、売らずとも箔になる」


 じっとりと、町人は手のひらを見て、そして意を決したかのように頷いた。


「ありがたく頂戴いたしやす」

「なに、お前さんみたいのとはつながりがあると何かと便利でね。これからも頼む」

「へへぇ、願ってもないことで」


 喜色満面で、町人は頷いた。天狗との個人的な繋がりは箔になる。そしてその証拠の不思議な筆。

 これから先、なにをするにしても、扱いを間違えなければ役に立つ。


「お前さん名前は?」

「本名は小助ですが、使わねぇもんで、与太郎とでも呼んで下せぇ」

「なるほど。俺は如意ヶ嶽の天狗だ。覚えておくといい。で、本題だが、その噂の男は?」

「ああ、ここから東へ行ったところの平屋でさぁ。そこの兄妹、兄貴の方は一之助ってんですが、聞けばすぐわかります」

「ほうほう、わかった」

「ではあっしはこれで」


 町人は走り去っていく。

 後には薬師と美香だけが残った。


「よろしかったのですか? あんな宝を」

「んー……? 所詮下詰んとこで饅頭一個と交換したもんさ」


 結局、後には絶句する美香だけが残った。
























     三



「はあ……、薬売りの方を探しているのですか」


 噂の一之助という兄は、鼻筋の通った男であった。

 身なりこそ汚いが、目には見るものがある。


「ええ、はい、飲みました。変化は出ていませんが、三日ほどで変化が出てくると」


 美香は、玄関で一之助の話を聞いている。その後ろから薬師はその男を見詰めていた。


「お前さんは……、なんで頭が良くなりたいんだ?」


 一之助はその質問に、薬師を一度みると、照れくさそうに笑う。


「恥ずかしながら、生活も苦しくて。誇れるのはこの家だけです。で、頭が良くなれば仕事の範囲も増えるでしょう? 少しでも暮らしが良くなって、妹が楽をできれば」

「そうかい」


 それっきり、薬師は興味を失ったようにそっぽを向いた。


「しかし……、薬師殿、既に薬を飲んでしまっているようですよ」

「そーだな」

「どうしましょうか。これからどうやって手繰れば……」

「この兄妹泳がしゃどうにかなんだろ」


 ひそひそと、一之助に聞こえないように二人は密談を交わす。


「ですが……、それでは」

「飲んじまったもんはどうにもならんよ」

「で、ですが、解毒とか、やりようは……」

「毒ならいいがね。どうもこの事件、そうでもない気がするんだな」

「毒じゃないなら何故死人が出るのですか……!」

「望んで飲んだんだ。どうしようもない」

「それを知らなくてもですか!?」

「なら俺らにどうにかできるかよ」

「……それは」


 言いかけて、口を噤む。

 美香も承知の上なのだ。しかし現実を認めたくはない。


(若いねまったく。だから心配なわけだが)

「……所でお前さん。薬売りの外見は?」


 不意に、一之助に薬師は聞いた。

 一之助はいきなりの質問に面食らったが、正直に答える。


「若い女性でした。絹のような髪の、青い瞳の人です」

「……そうかい。じゃあ、邪魔したな」


 沈痛な面持ちで俯く美香を連れて、薬師は家を出た。


「しゃきっとしろ。お前さんがそんなんじゃ救えるもんも救えんよ」

「……はい」


 薬師が言うが、美香の表情は一向に優れない。

 薬師は溜息を吐く。


「いいか、俺は諦めろといった覚えはないぞ。迅速に捕まえれば捕まえるほど死人は減る」

「……」

「最善を尽くせと言ったんだ。俺達の最善はどんな症状かも分からんもんの治療法を探ることじゃない。薬売りを捕まえることだ。薬そのものが手に入れば下詰 がなんとかできるかもしれん」


 まるで諭すように薬師は言う。


「できることをやって、できないことはできるやつに任せろ。何のために人脈ってもんがあるんだ」

「……薬師殿」


 美香は、薬師を見る。

 彼はいつもどおりのやる気のない、覇気の感じられない顔でそこにいた。


「少し気が緩んでいたようです」


 きつと美香は前を見る。


「私にできることなどたかが知れている。塵のようなそれを積もらせて山にするのが私の役目ならば」

「おーおー。やる気出してくれて何より。少し気になることあるから近くの山、森を歩くぞ」

「何か分かったのですか?」

「分かるかもしれん」


 言って、二人道を歩く。

 そんな時、ふと、前から袈裟の坊主がやってきた。


「そこのお二方」

「なんだ?」

「一之助という方の家を知りませんかね」

「向こうだが?」


 人好きのしそうな笑みを見せる坊主に、薬師は親指で先ほど出てきた平屋を示した。

 坊主は、そこですか、と平屋を見ると、薬師に向かって頭を下げた。


「ありがとうございます。では、これで」


 去っていく坊主を、二人は見送る。


「礼儀正しい方ですね」


 美香は言う。

 だが、薬師はまったく正反対な感想を抱いた。


「あの騙り坊主。ただもんじゃねーな」


 驚いて美香は薬師を見る。


「は?」


 薬師は、坊主の去っていった方向を見詰め、呟いた。


「坊主があんな巧く気配消すもんか」



















 森の中。

 薬師は、迷いなく進む。


「こっちだな」


 突き進む薬師に、美香は必死で後を追う。

 そして、不意に薬師は立ち止まり――。


「ここだな」

「きゃあっ……、や、薬師殿、突然止まらないで下さい」


 突如止まった薬師の背に、美香はぶつかり抗議の声を上げながら薬師の後ろから横へ出る。

 そして、息を呑んだ。


「――これは」


 薬師は、何事でもないかのように呟いた。


「首吊り死体だな」

















     四



 夜。月夜もない真っ暗な晩。

 行灯もなく、薬師と美香は一之助の平屋から少し離れた道で、平屋の内部を見守っていた。


「さて……、鬼が出るか蛇が出るか」


 眺める平屋の窓からは、兄妹が仲良く夕食を食べている光景が見える。


「美香。裏は取れたか?」


 薬師に向かって、美香は頷いた。


「ええ。あの首を釣った仏は、寅田の息子夫婦で間違いないそうです」

「なるほど。こりゃあ、いよいよもって……」

「どうしてあんな……」


 じっと窓の先を見守る薬師。

 瞬間、事態は動いた。


「えっ!?」


 美香が目を見開く。

 事態はめまぐるしく動いていた。

 不意に、まるで霧のように現れた、絹のような髪の、青い瞳の女。

 それに呼応するかのように部屋に飛び込んできた昼間の坊主。

 そして、だ――。

 ――病んだ瞳で妹の首を絞め続ける一之助。


「よし、じゃあ俺らもいくとするか」























「遂に尻尾を出したな。女狐め」

「この人も駄目……」

「七恵……、ななえ……」

「に……い、さ……」


 思惑入り乱れ、混沌とした場に。


「さて、一旦止まれ。順に話を片付けていこうか」


 天狗の声はやけに響いた。
















「貴方は一体、何者ですかな?」


 突如現れた薬師に、いの一番に対応できたのは、坊主であった。


「如意ヶ嶽が大天狗」

「これは大物が出てきたもので……」

「で、お前さんの目的はなんだ? 騙り坊主」

「無想と申します。私の目的は、そこな邪悪な薬売りの女狐を滅することに」


 坊主は、昼間あったときとは違う暗い目で、現れた女を指差した。

 女は、ばっと振り向いた。


「違うっ、私は――」

「大体わかってる。俺としては、そこな女を殺させるのは気に食わんな」


 被せて、薬師は言い、坊主は面食らった顔をした。


「何故です?」


 薬師は、さも当然のように言う。


「そこな女は嘘をついて薬を売っていたわけではないからな」

「ええ、と……、どういうことでしょう、薬師殿」

「美香は少し黙っててくれ」

「……はい」


 今ひとつ状況のわかっていない美香に後で説明してやる、と呟いて薬師は続けた。


「そうだな。聞くのが早い。そこの男にだ。一之助、何故妹の首を締めている?」


 ただ、ぼんやりと座っていた一之助が不意に声を上げた。

 声もまた、ぼんやりした、熱に浮かされたような声であった。


「――智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい」


 薬師はやっぱりか、と呟いた。


「頭は良くなったのか?」

「故に」


 一之助は頷く。

 坊主もまた、納得したように頷いた。この場において全員が事を理解した。


「あのー……、薬師どのぉ……」


 ただ一名を除いて、だが。


「ま。簡単に言えば、だ。頭が良くなったんだよ。それで悟った」


 呆れたように薬師は言った。あっさりと。


「生きる意義なし。死ぬのが一番楽である、と」


 美香は納得いかぬ、とばかりに首を横に振る。


「そんなのって……」


 だが、薬師は無情に言い放った。


「そう、皆が皆思ったんだよ。こんな世の中で生きることは不毛であるってな。で、自殺した」


 そう、全て自殺。

 薬を飲み、効能通りに悟りを啓いて死を選んだだけのお話。


「では、どうしてそこな女狐めはこんな薬を売っているのですかね」


 坊主は聞いた。

 薬師は、ちらりと女を見、呟いた。


「お前さんは仙女だな? お仲間が欲しいんだろう。違うか?」


 女、頷く。


「どういうことですかな?」

「悟りを啓くって随分寂しいことらしいぞ」


 女は悟りに至っておきながら、俗世を捨て切れていない。

 随分と我侭で中途半端だな、と薬師は女に吐き捨てた。

 そんな言葉に納得して、坊主は一度うなずいた。


「なるほど。ですが、所詮修行もしてない人間が薬で頭が良くなったところで、ということですか」

(まあ、別に擁護する理由もないわけだが……)


 薬師は心中呟き、しかし、そういうわけにもいかない、とばかりに言葉にする。


「そういうことだ。だからそこの女は嘘をついてない。正しく契約の上で薬の売買は行われた。自殺はそいつらの責任、だと俺は思うわけだ」

「しかし、たとえ寂しさゆえに隣人が欲しかったのだとしても。人間を死に追い込んだ罪には罰が必要です」


 じゃらり、と袈裟の袖が鳴る。


「暗器か。随分物騒な坊主だ」

「道をあけてくれませぬか」

「……平行線だな」


 言って、これ見よがしに薬師は溜息を吐いた。


「なら。いまいち話のわかってない馬鹿に決めて貰おうじゃねーか」


 そうして、薬師は美香を指差す。

 美香は、驚いたような顔をして、自らを指差した。


「私、ですかっ?」

「そうだ」


 しれっと、薬師は言う。


「お前さんの言うことに俺は従うよ。ささ、決めてくれ」


 困ったように、美香は視線を巡らせた。


「私のような馬鹿では少し荷が……」


 右へ左へ、さまようような視線は助けを求めて薬師を見るが、薬師は何も言いやしない。

 後には引けぬ、と知って美香は考えた。

 迷いに迷って、なにが正しいのか美香は考えて――。

 そして、最後に美香は仙女を見る。


「貴方は……、これ以上薬を売らないって誓えますか?」


 まっすぐに、女を射抜いて問う言葉。

 それに、逡巡の後、女は頷いた。


「決めました。薬師殿」


 それを見て、きっぱりと美香は言う。


「ほう」


 すらり、と美香は白刃を抜く。

 そして。


「――殺させません。これで事件はお終いです。これ以上、仏は要りません。私には何が正しいかなんてわかりませんが。死ぬより、生きてる方がいいに決まっ てます」


 迷いなく、言い切った。

 薬師は笑う。


「素敵だ。流石馬鹿の言うことは違う」

「ば、馬鹿にしてるんですかっ」

「いいや、褒めてるんだ。ふむ、なるほどうん。ある意味その辺のやつよりよっぽど頭がいい」


 薬師が笑い、美香が肩を怒らせる。

 そんな中、坊主は、今一度じゃらりと袖を鳴らした。


「言ってる意味がわかりませぬな」


 薬師は坊主へと向き直る。


「零より一がいいと言ってるのさ。自明の理だ」

「納得できませぬ」


 ならば、と薬師は言う。


「力づくか?」

「他にないなら」


 坊主から、殺気が迸る。

 只者ではない。

 緊張を覚えて強く柄を握り直す美香に、薬師は涼しい顔で言った。


「なあ、美香。お前さんは頭も良くないし、華麗でもない。馬鹿で無様だったりするわけだ」

「知ってます。私が誰より知ってます」

「だが、それがいい。そう思ってる俺が見ててやる。だから斬りたまえ」

「……はい」

「俺がずっと見ててやるから、お前さんはいつも通り斬るといい。馬鹿みたいに、無様に、愚直に、真っ直ぐに」

「斬ります。斬りますとも。馬鹿みたいに、無様に愚直に、真っ直ぐに――」


 振りあがる刃。

 坊主は、袖を振るう。

 そこから飛び出したのは斧であった。

 袖の容量からはありえない大質量が振り下ろされ。


「斬ります」


 勝負は一瞬で決まった。


「一之助、とくと見ておけ。あれが真っ直ぐ生きてる尊い馬鹿の姿ってやつさ。なあ、お前さんの妹、死にたいように見えるのかい?」


 一人の少女は、いつの間にか立ち上がり、美香を見ていた。

 その背を目に焼き付けんとばかりに見る顔は生気に満ちていて、目は爛々と輝いていた――。





















「今回は負けを喫しましたが、次回こそは勝ちますよ。美香殿」

「受けて立ちましょう。次回も一刀両断にして差し上げる」

「次回までに斧を鍛え直さねばなりますまい。次は斬られぬよう」


 そう言って、無想はどこぞへ去っていった。

 仙女はといえば、


「山へ来いよ。入れてやるから。多分天狗の中に一人くらい話の合うやつもいるさ」


 薬師が山へ招くことにした。

 これには監視の意味も込めて、だ。

 生きていた方がいいにせよ、再発は防がねばならない。

 もうしないと誓った上でも、やってしまわないとは限らない。


(その辺、便宜図ってやるのが年長者の務めさね)


 心中で呟いて、薬師は頭を下げて去っていく仙女を見送る。

 兄妹は、もう知ったことではないとばかりにおいてきた。

 兄ももう無理心中はしないだろう。

 後は本人達で、だ。

 薬師たちの仕事は事件の解決であり、被害者の介護までは専門外だ。

 よって、薬師と美香は、朝焼けの中家路を辿ることとなる。

 薬師の家は山だが、疲れに反して距離は遠い。

 結局、一旦美香の家で寝ることにした。


「薬師殿」

「なんだ」

「今回は、結局なにが悪かったんでしょうね」

「さあな」

「……」

「まあ、ただ、あれさな。人生ってやつは、余計なことに頭を回すもんじゃねーってな」

「そうですね」

「ちょっとくらい阿呆でちょうどいいんだよ。楽しむなら馬鹿みたいに踊らにゃ損ってな」

「そうかもしれませんね。でも、やっぱり馬鹿は頭がいいことに憧れます」

「――その考えが馬鹿なのさ」





















―――
遅くなって申し訳ない。
奇譚の五です。
作中の一之助の言葉は夏目漱石からです。
まあ、今回の話は、考え出すと切りがない、ってことで解決な訳ですが。
ちなみに坊主と仙女に関しては出番がまだあったりして。