薬師大天狗奇譚





「薬師殿ーっ」


 からんからん、と鈴を鳴らし、とある店に入って来た女の姿が一つ。

 店の名前は下詰神聖店。日用品からどこで手に入れたかも怪しげな品を売っている店だが――、そこはあまり関係ない。

 重要なのは、その店にいる、とある天狗のことだろう。


「またなんかあったのか、美香」


 呼ばれて反応したのは、店番をするべく座っている男だった。

 如意ヶ嶽薬師坊。よれた背広に身を包んだ、黒髪黒眼の日本人だ。

 しまりのない苦笑を、相も変わらず浮かべている。


「江戸で辻斬りですっ」


 きっぱりと言い放った美香に、薬師は溜息をついて返す。


「辻斬りなんてしらねーよ。俺は店番で忙しいんだ」


 そんな薬師の言葉に、美香はふっと今気がついたかのように、店内を見渡し、いきなり普通に戻って、


「そう言えば、店主は?」


 とのたまった。

 対して薬師はめんどくさそうに虚空へ呟く。


「知らん。出掛けたよ。だから店番任されてんだ。ってことで冷やかしなら帰れー」


 にべもない。

 投げやりな言葉に、思わず美香は涙目になってしまう。


「やぁくぅしどのー……」

「じめじめするなよ、他人の店で」

「いーやですー……、手伝ってくれないといやですー……」

「……」

「どうせ私は推理に向いてない脳筋なんですよう……」


 店の傍らでめそめそする美香を数分見守り――、そして遂に薬師は溜息を吐いた。


「……わかったよ。わかったからしゃっきりしろ」


 美香が薬師の方を振り向く。


「……本当ですか?」

「本当も本当。俺はいつでも真面目だよ」

「店番は……?」

「人来ねーから大丈夫」

「……わかりました。逃げないでくださいね……?」


 片手で目尻を拭きながら、美香の手ががっしと薬師の手を掴んだ。

 仕方ない、ともう一度溜息を吐いて、薬師は美香と共に外へ歩き出したのだった。











剣豪奇譚













 美香に案内され、連れてこられたのは、とある武家であった。


「こちらが薬師殿です」


 そう言って紹介された俺の前に座っているのが、次期当主の男で、結納を控えているという。


「ああ、貴方が。お待ちしてました」


 次期当主なだけあって、いかにも若い。

 薬師は心になんとなく、青臭い、と印象を零した。

 そして、その隣にはその結婚相手であろう若い女性が、微笑みを湛えて座っている。

 こう言った状況はどうにも珍しい。


「随分と仲が良さそうだな」


 あまりこう言った場に女性は連れてこないものだが――。

 薬師が言えば、二人は目を丸くして、顔を見合わせた。

 そして、男の方が苦笑交じりに伝えてくる。


「二人とも、好き合ってますから」


 そんな答えに薬師は感嘆の声を漏らした。


「ほぉ……」


 この時代、政略結婚がありふれた時代だ。その中で初めから好き合っている、というのは実に幸運なことである。

 そいつは重畳、と零しながら薬師は言葉を続けた。


「それで。今回はあんたらが依頼人でいいのかい? まあ、事情は察したが」


 そう零した薬師に、男は少々驚いたを顔する。


「そうなのですけど――、随分と察しが速いんですね」

「そんなんあれだろ。どうせ式を待つ状況で帯刀者を狙った辻斬りがいて気が気じゃないんだろ?」


 と、薬師は苦笑交じりに呟いた。

 お世辞にも、目の前の男は強そうとは言えない。

 腰に刀を差しているだけで、むしろそこいらの百姓より逞しくないかもしれない。

(言ってしまえば……、なよっちい)

 勝手な感想を下した薬師を相手に、恥ずかしげに頭を掻く男。


「恥ずかしながら、その通りで」


 薬師は溜息を一つ返した。


「辻斬りは専門じゃないんだがね。ま、出すもん出すなら文句はねーさ」


 そう言って、立ち上がる。

 ここに座っているだけで事件が解決するなら苦労はない。

 薬師は美香を伴って、辻斬りが起きた現場まで歩いていく事にした。



















「うおっ、現場が放置されてる、すげーな」


 着くなり、薬師はそんな声をあげた。

 確かに、橋の上に死体がそのまま放置されているのは異様な光景であった。


「少々見てもらいたものがありまして――」

「なに? お前さんが現場放置させたの? 鬼畜だなぁ」

「見てもらいたい物があったからですっ!」

「なんだなんだ? そこなおっさんの胸に突き刺さっているあれか?」


 そう言って薬師はそれを指さした。

 倒れているのはやはり帯刀者。浪人であるとかは関係ないらしい。

 そして、年の頃は四十過ぎか。剣士としては脂の乗り切った辺りだろうか。

 だが、その光景で一番問題であるのはやはり――。

 その胸に突き刺さった刀の切っ先であろう。


「どの死体にもこのように折られた刀が突き立っております。果たし合いに勝ち、突き刺したのでしょう。どれも致命傷はそれで」

「真剣勝負に勝ち、動けない相手に刀を折って突き立てる、ねえ? 辻斬りの美学ってやつか?」


 まるで墓標だ、と薬師は吐き捨てた。

 負けた剣士は死しているも同然。鈍く光る武士の命がそう訴えかけているように見える。


「負ければ死ぬ他ない、ということですか。この太平の世に……」

「さてな、甘ったれが増えた世の中に気骨のある奴が生まれたのか、それとも甘ったれが一回りして異常に足突っ込んだのか」


 太平の世は、研鑽に心血を注げると同時、お飾りの剣術もまた増えた。

 果たして、目の前の剣士はどうだったのだろうか。

 剣に関し門外漢である薬師には判断が付かなかったが、しかし相手が只者じゃないのはわかった。

 致命傷は全て折られた剣。それは、殺さぬよう手加減して戦える人間が相手だったということだ。


「半端じゃねーな……」


 生半な腕では、こんな真似できはしない。

 誤って殺してしまうか、殺さぬよう気を払い過ぎて殺されてしまうかだ。

 そんな見えない相手に薬師が、胸がはずむような、空恐ろしいような、なんとも言えぬ感覚を覚えている時、美香は言った。


「これが、町では幽鬼の類だと噂れてるのです」

「幽鬼だって?」


 辻斬りの幽霊だなんて聞いたこともない、と薬師は美香に問い返す。

 美香は、一つ肯くと、


「江戸だけで十三人。なのにまともな目撃者が存在しない。不思議じゃありませんか?」

「なるほど? 確かに怪しいな。だから俺に回ってきてんのか」

「そうなんです。だから、知恵をお貸し願いたくて。それで、何かわかりました?」

「わかる訳ないだろっ、来てどんだけだと思ってんだ」

「この間は一日で核心に迫ってたじゃないですかっ」


 この間、とはつい数週間ほど前、薬師が商家のろくろ首を退治した時の話だ。

 しかし、あの状況は随分特殊であって、まったく参考にならない、と薬師は首を横に振る。


「まずは会ってみねーとわからんだろ。前回はろくろ首だとはっきり分かってたからある程度簡単だったんだ。それこそ辻斬りは専門外だよ」


 言って、薬師は後ろを向いた。

 そのまま、歩き出した薬師を、美香が追いかける。


「どこへ?」

「適当な所で待つとするさ。言ったろ? 会ってみなきゃわかんねーって」

「あ、待ってくださいよ」

「当然だろ」

「へ?」

「これからしばらく江戸にいる分の宿代はお前さんもちなんだからな」

「えええぇぇええ……?」
















「で、なんで私と貴方は団子を食べているのですか?」

「暇だからだろ」

「辻斬りを探すのでは?」

「待つんだよ」

「待つにしても、事件のあった橋の上とか――」

「出てきたらわかるって」

「薬師殿は不真面目がすぎますっ」

「むしろ関わる必要のない事件にこうやって出張ってんだから真面目すぎて涙が出るね」

「そっ、そこを言われると……」


 そもそものことを言えば、美香の願いで下に降りてきているのであって、薬師としてみれば面倒にまかせて山に帰ってしまっても問題は無いのだ。

 報酬が絡んでいるとはいえ、今の山は現状問題ない。

 太平の世になった今でも、いや、今だからこそ人外向けの仕事は多い。


「ま、ある意味お前さんは俺を接待する役目もある訳だ。黙って団子でも食っていたまえ」

「そ、それはそれで接待じゃないような……」

「第一ここの代金お前さん持ちだしな」

「そ、それは少しくらい払ってくれても……」

「断る、ああ、断る」

「繰り返さなくてもいいですっ」


 肩を怒らし、そして今度は途端に肩を落として美香は財布を見やる。


「なんだ、そんなにやばいのか?」


 別に美香の生活を立ち行かなくさせたい訳ではない。

 流石に心配になった薬師の問いに、美香は首を横に振った。


「流石にここの支払いに困るほどではありませんよ、人をなんだと思ってるんですか」


 そして、それより、と美香はまじまじと薬師の顔を見る。


「ん?」


 疑問符を浮かべた薬師の頬に、美香はあっさりと細くなめらかな指を滑らせた。


「頬にあんこがついてますよ。まったく、変な所でそそっかしいんですから」


 その指に付いたあんこを勿体ない、と舐め取る美香。

 薬師はそれをじっとりと見つめた。


「なんです?」


 しばらくぼんやりと見つめていた薬師だったが、ふと、言葉にする。


「いや、お前さんって、たまに平気で恥ずかしいことやらかすよな」

「え? あっ――!」


 瞬間、美香の顔があっさりと朱に染まった。


「そ、そそそその、これは、ですねっ!」

「ああ、いいから、わかってるって。お前さんはわかっててんなことできるほど器用じゃないっての」


 気を使って言った、薬師の言葉だが、美香には効果をなさず、と言うべきか。

 いや、効果はあったが、何故か美香は悲しげに眼を伏せる。


「ぐっ、貴方にそう言われると女としてはどうなのかと……」

「むう? 変な奴だな。まあいいや、行くか」


 不意に立ち上がった薬師に続き、代金を置いて慌てて立ち上がる美香。


「何処へ?」


 聞かれて、薬師は片手を上げながら答えた。


「宿。帰って寝る。今日はしんどい」

「ま、まだ何もやってませんよ!?」


 しかし、そんな言葉もなんのその。


「いやぁ、今日は星のめぐりあわせが悪くてな。月齢的にも天狗力が弱まってるんだよ」


 いけしゃあしゃあと囀った薬師に、美香は何とも言えぬ呆れたような視線を送る。


「知ってるんですからね、それ、嘘です。この間藍音に言ったら――、天狗力……? 初耳ですね。と阿呆の子を見る様な目で言われましたからっ!」

「……」

「なんですかその藍音め、余計なことを言ってくれたな、的な顔は」

「よくわかったな。しかし俺は宿に向かう」

「開き直りましたね? でも駄目です、さあ、行きましょう!」

「いやだ。明日から本気出す」

「明日から本気出せる人間は今日から本気出せるんです!」

「じゃあ、本当のことを言おう。ここから百年、本気を出す予定がないので帰っていいですか」

「……もう好きにしてください」





















「で」

「で?」


 逢魔が時も過ぎ去って、夕日も沈んで消えた頃。

 何故か薬師は、美香の借りている平屋に来ていた。


「なんで私と貴方がど、ど、同衾してるのですかっ――?」

「同衾、そう言えば同衾だな。意味合いは違うと思うが」


 呟いた薬師は布団の中。問うた美香も布団の中。

 布団は一枚。枕は薬師が奪っている。


「まあ、なんでと言われれば。お前さんが宿代をけちったからだろうに」


 そう、美香の財布事情も裕福なものではないらしく、だったら美香の使っている江戸の方の家に泊まればいい、とのことだったが、しかし美香は不満たらたらと。


「そ、それはそうですが。だからってこれは……」

「俺は床で寝たくない、だが、女を床で寝かすのもなんか悪い。じゃあ一緒に寝ればいい。ほら、なんの問題もない」

「何も問題ないのはそれはそれで女として問題ですよっ」

「知らん」

「あ、あと枕とか――」

「ほれ」


 なんの問題もない、とでもいうように薬師は腕を差し出された。

 差し出された方の美香は、顔を赤くするばかりである。


「う、腕枕、ですか……」


 しばらく、投げ出された腕を見つめ続ける美香。

 そうしてじっくり悩み続けて、やがて――。


「で、では失礼して――」

「悪かったな、冗談だよ」


 そんな微笑みに邪魔される。

 薬師は既に立ち上がっていた。


「俺は畳で寝るとするさ」

「あ、貴方は――っ」


 美香が抗議の声を上げようとした、その時だ。

 薬師が不意に顔を上げた。


「むっ、来た晩に来るとは中々やるな……!」


 上げたと思えば、即座に下駄を履き、外へ赴く。


「どうしたのですかっ?」


 身を起して問うた美香に帰って来たのは、簡単な一言だった。


「噂の辻斬りさんだよっ!」
















「や、薬師殿!」


 美香が堰切って駆け付けた時には既に、薬師は辻斬りと対面を果たしていた。


「美香か、遅かったな」

「薬師殿が速すぎるのですよっ」


 息を整えながら、美香は辺りを見回す。

 その視界に死体が入ってこない、ということは上手く薬師が被害者を逃がした、ということだろう。

 そう納得して、美香はその辻斬りをじろりと睨みつけた。


「これが……っ」


 意識せずに、美香は息を呑む。

(明らかに人ではない――!)

 美香は、異様な空気をその人物から感じ取っていた。

 外見はただの人間だ。

 長髪を後ろで括った、線の細い青年。なのに――、美香はそこから何らかの寒気を感じる。

 何故、と言う前に薬師が言った。


「幽霊の辻斬りたぁ……、珍しい」

「幽霊……」


 美香は自分の口の中でその言葉を転がした。

 そして、なるほど、と納得する。

 辻斬りの纏う白い着物。

 それはまるで――、死に装束ではないか。


「貴殿は――」


 ぼそり、と辻斬りが口を動かした。

 薬師をじっと見つめる顔は、構成は優しげな青年であるはずなのに、何故か剣呑な空気を感じさせる。

 そして、辻斬りが遂に刀を抜く。

 一色即発か、といったその瞬間。不意に薬師が驚きの声を上げた。


「そのなげー太刀、もしや、備前長船長光三尺三寸か? だとするとお前は――」


 何か知っている風な口ぶりの薬師に、美香は疑問を投げかける。

 確かに、普通の刀は二尺ほど。それを思えばかなり長い。しかしそれがなんだというのか。


「何か知ってらっしゃるのですか?」


 呆れたように、薬師は返した。


「お前さんだって知ってるさ。そうだな、あの刀。物干し竿つった方が分かりやすいかね?」

「は……?」


 今度は美香が驚く番であった。

 物干し竿、などと呼ばれた太刀を振りまわした男は、後にも先にも、一人しかいない。

 ということは。


「あれがまさかっ……、佐々木小次郎!?」


 言った瞬間、辻斬りの太刀と薬師の十手が噛み合った。

 そして、正に神速の打ち合い。

 何度も何度も噛み合う鉄が火花を照らし、美香は辺りが照らされているかのような錯覚を覚える。

 それから、不意の鍔迫り合い。


「まったくもって……っ、めんどくさい相手だなっ!!」


 それを、人智を越えた怪力で薬師が押し返した。


「ぬうっ……!」


 体勢が崩れたその一瞬。それを薬師が見逃すわけもない。


「せいっ!」


 気合一閃、回し蹴り。

 竜巻のように放たれたその足の先、六尺程は伸びた高下駄が、間合いの外の辻斬りの首を。

 ――たしかに捉えた。

 辻斬りの首が宙を舞う。

 宙を舞う首は、当然のように重力に引かれていって、


「貴殿は剣士ではないのだな――」


 地に落ちた。

 何故か、最後の言葉が、やけに美香の耳に残った――。


「これで、終わったのでしょうか」


 と、不安げに美香は薬師に問うた。

 薬師は無責任に、さあな、と呟く。


「どうだか」






 その言葉に応えるように――、江戸では再び辻斬り事件が起こることとなる。






「やっぱり、同じ手口ねえ?」


 前回団子を食べた場所と同じ空間で、薬師は美香に語りかけた。


「そうです。貴方はこうなることを半ば予測していたようですが――」

「そうだな。まあ、言っちまえば、実体をもつ幽霊ってのはありえん執念の塊だ。それが一旦殺した位で片が付く訳もなかった、ということさね」


 普通霊は、余程の執念が無い限り、死んだ時点で別世――、知る者は地獄と呼ぶが、そこへ引き寄せられるのだ。

 執念で引き寄せられるその引力に抗い、触れられないはずの体を妄念で作り出す。


「正直、斥力で人体を形成したかに見せかける、なんて正気の沙汰じゃねーからな。それこそ、普通なら呪い殺す位だ」

「そうなのですか……、では、どうしようもないのでしょうか?」


 その問いに、薬師はいいや、と否定を示す。


「簡単だ。未練を断ち切りゃ勝手に帰るさ。普通なら。所謂、成仏だな」


 と、薬師はこともなげに言ったものの、美香としてはたまったものではない。


「その未練が分からないとどうしようもないと思いますっ」


 そんな美香を、薬師は笑った。


「んなの簡単だろうがよ。剣豪の未練なんて、そう多くないさ。その上、佐々木小次郎という個人名まで出てるんだ。予想は難しくない」


 団子を口に放り込み、薬師は一度押し黙る。

 美香は、その間に考えを巡らせた。


「わかりません。というか宮本武蔵しか思い浮かびませんが、それだったら解決のしようもないですよね?」

「諦めるの早いな。果たして、剣豪殿が真剣勝負の結果を受け入れられないもんかね。多分理由は別にある。というのはともかく。まあいいか。とりあえず、解決したいんだよな?」


 確認に、美香はしかと肯いた。


「わかった、じゃあ、俺の言うよう準備してくれ――」





















「美香、です。今となってはそれだけが名前」

「佐々木小次郎。通りすがりの剣客だ」


 宵闇の中、橋の上。小次郎は、長き太刀をもって。

 美香は、二刀を以って、そこに立ち会う。


「貴方の無念、晴らしましょう」

「果たして貴殿に晴らせるか――?」


 剣戟が、始まる。












 本来、美香は一刀流の剣士である。

 それが何故、二刀を以って小次郎を相手しているのか。

 それは、薬師の思惑から始まった。


「さて、お前さんは小次郎に勝利せねばならん訳だが――。あっさり勝てると思うなよ?」


 と、家に帰るなり、薬師は美香に言ったのだ。

 その只ならぬ空気に、美香は息を呑み、聞き返す。


「そんなに強いので……?」


 それを、あっさりと肯定する薬師。


「ああ、強い。武蔵、小次郎、双方ともに、人の身でありながら、人間を踏み越えかけた奴らだよ。お前さんが踏み越えた側だからって、そう簡単にはいかないさ。まあ、小次郎は踏み越える前に死んで、武蔵は踏み越える前に真剣勝負をやめてしまったがな」


 人をやめた存在である美香に対し、有利ではない、と言い切る薬師に、美香は瞠目した。


「……それほどまで、ですか」

「そうだ。そして、その上に」


 問題の壁がある、と薬師は言う。


「秘剣、燕返しがある」


 燕返し。虎切りとも言う、小次郎必殺の太刀。

 それを、今の美香では越えられない、と薬師は断じた。


「如何様な技なのですか?」

「そいつは判然としねーな。使い手が絶えて久しく、切り返し技だってことしかわかってねー」


 だが、と薬師はにやりと笑いを浮かべる。


「どんな技か予想はついた。そして、予想がつくなら、対策も可能だ」
















 幾度となく響く、甲高い剣戟の音。

 その向こうに潜む、燕返しを美香は破らねばならない――!

 薬師に聞いたままの技だとすれば、とても恐ろしい技だ。

 喉が渇き、ひりひりと痛みだす。

 しかし――、調子はいつになく絶好調。

 剣術で人を踏み越えた美香に、迫る剣術が、美香の精神を高ぶらせていた。

 打ち込み、弾かれ、間合いを取り、打ちこまれ、それを弾き、敵に迫る。


「ふ、ふふ……。なるほどよい。凄まじい剣士だ……!」


 いつしか、小次郎の口から、笑みが漏れだしていた。

 しかし、それは美香にとっても同じ。


「なるほど、貴方の無念察しました。来てください」


 笑みながら、凄絶に二刀を構える。

 小次郎の無念。

 それは老いだと薬師は言う。

 小次郎という人物は今一つ謎に包まれているが、巌流島での決闘時の年齢は、師弟関係を考えるに、かなりの高齢だったと考えられる。

 その高齢で武蔵と戦ったこと。それが唯一の無念。

 武を尽くせる相手がやっと見つかったというに、自らの体は老いて衰え。

 故に、無念。

 小次郎が、一度間合いを取り、立ち止まる。

 只ならぬ空気に、美香は足を止めて、刃を構えなおした。

 低く、小次郎が言う。


「では、佐々木小次郎、参る」


 辻斬りは、小次郎が剣で負けるまで続くだろう。


「受けて立つ……!」


 故に、勝たねばならない。

 小次郎が、動く。

 腰元で構えられた刃が、遂に放たれる。

 放たれたのは――。

 ――燕返し。

 燕返しは、切り返し技だったと伝えられている。

 右から左へ。そしてそれを防ぐか回避し、打ちこんで来た相手に、左から右への神速の攻撃を加えることで敵を斬る。

 と、佐々木小次郎の開いた巌流の門下生は言う。

 だが――、違う。

 美香の左手の刀に、小次郎の太刀が噛み合った。

 そして、甲高い音を立てて、刀と刀が擦れ違う。

 ここで、燕返しが門下生の言うような剣術であれば、帰って来た太刀を刀の一本で受け止め、もう一本で斬ればよい。

 だが、違う――!

 翻る太刀。

 それを、美香は真剣な面持ちで受け止めた。

 その時だ。

 一層甲高い音を立て、美香の刀が折れたではないか――!

 そして、その刃が翻り、一直線に美香の胸元へと飛んでいく!

 そう、死体に刺さっていた刀は、全て是、燕返しによって突き立ったのだ。


「これぞ、燕返し――」


 小次郎の声すら、美香には遠かった。

 薬師にこうなると言われていても尚、秘剣は強い。

 一寸が何尺にも引き延ばされるように、時間の流れが遅い。

 あっさりと心臓に突き立つであろう、その刃を親の敵のようにじっと睨み据えて。

 刺さるか、刺さらぬか。

 その胸先一寸で美香はそれを――。

 半身となって避けた――!

 小次郎が、目を丸くする。


「そこぉおおおッ!!」


 勝ちを確信したそれを覆し、美香は大上段から刀を振り下ろす。

 そう、このために薬師は美香に二刀を持たせたのだ!

 大天狗の知恵を借りた、美香の全力の一太刀。

 その刀は、小次郎の頭部を叩き割る――。

 はずであった。


「……剣を執る度思い出せ! 刃鈍く光る度恐怖せよ……!!」


 げに恐ろしきは剣士の執念。

 以降武蔵に一切の真剣勝負をさせなかった、その恐怖。

 それが、さらなる切り返しを放ち、もう一度、美香の刀を叩き折る――!

 返された燕が、美香へと迫った。

 決まりかけた勝負。

 小次郎の執念が勝つか。そう思われたその瞬間。


「さ、せるものですかぁあああああッ!!」


 美香は、避けない。避けられない。

 故に――、

 ――弾いた。


「なにっ!」


 折れた刀で、神速で迫る刃を弾き返した美香に、今度こそ、小次郎は眼を丸くした。

 折れた刃が、くるくると宙に舞う。

 美香が、両方の刀を捨て、小次郎に迫った。

 既に間合いは零に等しい。


「はあああああああッ!!」


 裂帛の気合を込めて、美香は小次郎の袖を掴む。

 間合いを詰められた今、小次郎の長い太刀は無用の長物と化していた。

 故に、無抵抗に投げられる。

 地に投げ出された小次郎に、美香はのしかかった。


「ぬうっ!」


 両腕を抑えられ、小次郎は身動きが取れない。

 だが、しかし。

 美香にも決め手がない。

 これでは千日手。

 だが、そうはいかなかった。


 ――宵闇を切り裂く煌めく刃。


 そう、先程折れたばかりの刃が、美香のすぐ横に落下していくではないか。

 まるでそれを狙っていたかのように、美香は迷わずそれを咥えた。

 がちり、と歯の噛み合う硬質な音が鳴って、その刃は小次郎の首に押し当てられた――!

 これにて、決着。














「……見事だ。きっと、燕返しを破られた時点で拙の敗北は決まっていたのであろう」

「満足しましたか?」

「拙の限界が見えた……。満足。死んでこれとは、拙は幸せものだなぁ……」


 満足したように、小次郎は笑う。

 そんな折、ずっと近くの屋根で見ていたのであろう薬師が、橋の上に降り立った。


「おお、天狗殿か。今回の舞台のお膳立て、感謝しまする」


 その姿を見とめて、小次郎は言う。

 対して薬師は、苦笑を返した。


「いや、礼には及ばんよ。いいもん見せてもらったしな」

「そう、か……。では、拙はこれで」


 そう言って、小次郎は透けて消えた。

 後に残るは静寂一つ。


「終わったんでしょうか……」


 疲れたように呟く言葉に、あえて答えず、


「おお、夜明けだぜ。綺麗なもんだ」


 別の言葉を吐いたのだった。



























「で、なんで貴方がここにいるのですか?」

「いやあ、恥ずかしながら拙、人の限界を超えたいと思いまして候」


























あト書き。

奇譚二にしていきなり佐々木小次郎ですよ。意味わかりませんね。
いいのか悪いのか。まあ、思いついたから書いてしまえ、ということで。


ちなみに、実在の佐々木小次郎さんとはなんの関係もない可能性が高いです。
っていうか、あれです。この作品の小次郎はフィクション八十パーかもっと高い位だと思います。
実在の小次郎は、年齢もはっきりしてないし、師匠が富田勢源だったか、鐘捲自斎だったかも定かじゃないそうです。
あと、燕返しも切り返し技としかわかってないようです。流石に相手の剣折って飛ばしたりはしません。
佐々木巌流なる剣士もいて、その人は天寿を全うしただのなんだので。錯綜しまくってるんですね。
ここの小次郎は、その辺の断片化した情報を面白いようにくっつけたり、変な設定を追加したりしたものです。
そういうことができるのが小次郎の面白い所だと思いますが。
故にそう言った創作物も多いんでしょうね。