俺と鬼と賽の河原と。
山を歩いていて、地に倒れた少女がいた。
「おい、お前さん」
否、少女は地に倒れたというよりも地に転がる、と言った方が正しい。
その蒼い瞳には、何も映っていない。
ただ、仰向けに空を見つめていた。
「お前さん、気狂いか?」
返答はない。
当然だ。
ただ、少女は遠くを見つめているだけで、その目に俺を映していないのだから。
だが。
この場合の普通の選択肢は、放って帰る、だったはずだ。
はずだったのだが――。
ああ、これはきっと猫のせいだ。
猫のせいだから、まあいいか。
「――お前さん。うちに来るか?」
返答はない。
返答はないから――。
――肯定と受け取った。
少女が何処へ行ったのか、満月だけが知っている。
薬師昔話 藍音さんの話。
茶色いと思っていた髪は、綺麗な銀髪だった。
「お前さん、実は銀髪だったのか」
果たして、百年に一度か、千年に一度か。
それとももっと大きい期間か。
稀に、自然発生系の妖怪の中で、精神が不完全な状態で生まれる者がいる。
そう言ったものを半欠けと呼ぶのだが、それが、多分この少女なのだろう。
気配が弱過ぎて、天狗かどうかもはっきりと分からないが、人でない気配だけははっきりしているのだから、多分そうだ。
ただ、普通はそんな状態の天狗は、誰も拾ってこない。
何故かと問われれば、そういった天狗は、一部の生存本能すら欠けているからだ。
だから、食事も与えてやらねば取らないし、実に息をしているだけ、という表現が似合う。
妖怪にとって食事は人でない故に極限まで取らなくてもいい者が多いが、それでも何年も何十年も断食すれば自分を維持できず消えるか、逆に悟りどこかの境地に至るかだ。
そして、生まれたての弱小妖怪たる、半欠けは食事が足りず、あっさりと自然に帰る。
それ故、誰も拾ってこない。
いうなれば、土に還る落ち葉の様な存在なのだ。
まるで、捨てられた人形の様。
それでも――、俺は拾ってきた。
「お前さんは、瞬きしかしてないな」
何故?
猫のせいだ。
あいつに重ねて見られる目の前の少女もきっと迷惑だろうが、どうせ自意識もないのだ、俺に付き合ってもらおう。
「ああ、そうだ……」
猫にできなかったことも、やっていこう。
ただの自己満足だが、それでも呼んでやりたいと思うのだ。
俺は、部屋の椅子に座る少女に語りかけた。
「お前さんに名前をやろう」
返事は決して帰ってこない。
帰ってはこないが――。
「藍音だ。如意ヶ岳 藍音。短い間になるかも知れんが、よろしく頼む」
――成立しない会話は、猫で慣れていた。
「飯だ。ほれ」
言って、俺は藍音の口に掬った粥を突っ込んだ。
突っ込んだのだが、しかし、半欠けである彼女は、能動的に動かない。
粥は、開けさせた口の隙間から零れ落ちてしまった。
着せてやった、俺のYシャツにまで、被害が広がる。
「参ったな……」
俺は虚空に呟いた。
色々試して、流し込んだりもしたが、駄目だった。
あふれるばかりで、上手くいかない。
かといって。
方法がない訳ではないのだが――。
できるだけ使いたくないんだよなぁ……。
しかし、そういう訳にも行くまい。
食わさなければ死んでしまう。
気まぐれで拾ってきただけだが、しかし、面倒だからやっぱ捨てるってのは負けた気分で癪だ。気に食わない。
これは医療行為である。
と人工呼吸の様な言い訳をして、俺は粥を口に含む。
そして、藍音に俺は口づけた。
所謂、口移し。
俺は、ねっとりとした感触の中、粥を喉の奥に押し込んだ。
そして、口を離し、溜息を吐く。
「はぁ……、世話焼かしてくれんねえ……」
気分としては忸怩たるものがあった。
急を要するものでないせいで、まるで人形を相手に異常性愛を向けている様な己への痛ましさを覚えるのだ。
それでも、やっぱりやめるわけにはいかいない。
ここまでやって放り投げる方が――、もっと気に食わない。
俺は、無心になってひたすらに少女と唇を重ねた。
辺りに、水音だけが響いている。
そうして、十分か、二十分か。それとももっと掛かったか。
粥だけなのに、効率の悪い方法で食べさせたから、遅々として食事は進まなかったが。
それでも、なんとか器が空になる。
俺は、ひと仕事終えた疲労感で、一つ息を吐いた。
「疲れた。ああ、疲れた」
呟いて、俺は手拭を取る。
「ほれ、涎がついてんぞ」
手のかかることだ、と手の中の手拭で、拭ってやった。
相も変わらず、椅子に座って、俺を眺めているはずの少女の瞳は決して何も映していない。
「……ああ」
ふと、俺の手が少女の白い頬に当たる。
当たり前のことを今更思い出した。
「そういや人間って、温かいんだったな」
久々に、他人の温もりに触れたことを、今、思い出した。
それからというもの。
「おはようさん。今日は天気が最悪だな」
俺は相変わらず独り言を唱えている。
結局、俺のしていることは人形遊びと変わらない。
それでも、俺は未だに藍音の世話を続けている。
それで構わないと思っていた。
ただ、疑問に思うことはある。
俺はこの少女をどうしたいのだろうか。
果たしてどこに持っていきたいのか、漠然として、はっきりしない。
それでも俺は、毎日独り言を呟いた。
そんな、ある日のことだった。
「ただいま、っと。今日も疲れた。誰もまともに書類仕事できねーからな。優秀な秘書が欲しいよ」
俺が一番よかったと思うのは、粥では生命維持に余剰分がないらしく、全部吸収してしまうことだ。
どういうことか、と言われると、要は排泄の世話をしなくていいということだな。
まあ、それでも埃を被ってしまうから、定期的に風呂に入れてやらないといけないが。
「お前さんは……、喋れたなら何を言うんだろうな?」
ぼんやりと、俺は呟いた。
俺の勝手だから問題ない、そう思っていたが、それでも思ってしまう。
俺の独りよがりに付き合わせている少女は何を想っているのだろうか、と。
死にたい、そう言ったなら、殺してやろうと思う。
ただ、少女は何も語らない。
語らないから、踏ん切りがつかない。
「でも、そうさなぁ……」
踏ん切りはつかないが、今日に至り、思ってしまう。
「解放してやるべきかなぁ……」
彼女は一体何を想っているのか。
それはわからない。わからないが、決してそれは楽しいとか、嬉しいとかそんな感情ではないと思う。
だから、殺してやってもいいと思う。
そんなことを考えて、俺は粥を作った。
「これが最後の晩餐だな。お疲れさん」
俺は一つ微笑みかけて、藍音に夕食を食べさせることとする。
遅々として進まない食事に、少しずつ、粥は温くなっていった。
そうして、やっと。
最後の一口になる。
俺は、なんとなく何か言いたくて、言葉にした。
「……付き合ってもらって悪いな」
それは謝罪。
「ああ、あと。暖かさをありがとさん」
そして感謝。
伝えて、せめて最後は人らしい尊厳を、と俺はれんげを使い、藍音の口に最後の粥を流し込んだ。
これで、終わりか。
実に、奇妙な体験だった。
得るものはあった、と考える自分に一つ苦笑して、俺は立ちあがる。
「今日は、奇しくも満月だな。お前さんと会った日と同じだ」
どうせなら、満月の下で殺してやろう。
そう思って、俺は最後にと藍音の頬に触れた。
触れた、その時だ――。
「……」
ごくん、と。
俺の耳が、目が、風が。
少女が自ら嚥下したのを、――捉えた。
見間違いではない。
粥は少女の口端に垂れることなく、確実に。
確実に、呑みこまれていた。
「ふ……、く、はは……」
俺は思わず笑った。
気がつけば笑っていた。
「なんだ……、ちゃんと反応するじゃないか……!」
人形だなんて嘘っぱちだ。
そんな嘘を吐いたのはどこの誰だ。
少女はちゃんと生きている。生きて、成長してるじゃないか。
俺は、すとん、と落ちるように藍音と対面する椅子に座りなおした。
「ああ、そうだな。生きようとしてんのに、殺す道理はねえ」
死にたいと言えば、殺してやる。先程はそう思った。
だが、やめだ。
死にたいと言っても殺してやらない。意地でも生かす。
俺はこの少女をどうしたいのだろうか。
答えられなかった問いだが、今は違う。
果たして俺はこの少女をどこに持っていきたいのか。
簡単だ。
「笑ってくれ――」
俺は、藍音を見つめて、笑った。
「――いつか笑ってくれたまえ」
そうして、俺の独り言は増えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
そんな出来事からもう一月の時間が経った、ある朝の出来事だ。
秋も終わりをつげ、雪が降るのを今か今かと待ち構える、陽射しの弱さを覚える朝だった。
そう、俺と少女の関係が大きく変わったのが、そんな朝だ。
俺は、その日もいつものようにベットから這い出した。
そして、いつものスーツに着替えると、隣に用意したベッドの藍音を運び、執務室の椅子に座らせる。
そうして、いつもの位置に落ち着いた藍音に、俺はいつも通り声を掛けた。
「おはようさん」
そう、その時まではいつも通りだった。
だったのだが。
ここからは、――違った。
「……おはよう」
開いた口がふさがらない。
「あなたは……、だれ?」
喋った。
――喋った。
実に、実に感慨深い。
「薬師。俺は薬師だ」
できるだけわかりやすいように言ってやる。
すると、今一度少女は聞いた。
「わたしは?」
俺はもう一回わかりやすく、立ったひとつの事実を答えた。
「藍音だ。お前は藍音だ」
正にこの瞬間、彼女は名実ともに、藍音となったのだろう。
そして、彼女の中で俺は薬師になった。
そうして、彼女は視線を動かして見せる。
右へ、左へ。そして、俺を捉え。
「あなたは、やくし。わたしは、あおね」
彼女のあおい瞳には、確かに俺が映っていた。
「そうだ。覚えたな? ああ、腹は減ってないか?」
「はらがへる?」
首を傾げた藍音に、俺は言う言葉が見つからず、結局行動して見せることとなる。
「飯は食べたくないかってことなんだが……、まあいい、持ってこよう」
粥を作るのは簡単だ。
要は、飯をふやかせばいい。後は味付けだけだ。細かくこだわるのもありかもしれんが、俺はそんな料理を趣味にしていない。
ともかく、俺は粥を制作し、部屋へと戻った。
「よく――、噛んで食えよ」
しかし、話せるようになったとはいえ、教えてないことはまだまだ沢山ある。
特に、動作に関してはまったくもって知らない。
まあ、当然と言えば当然か。藍音は今まで一切動くことを知らなかったのだから。
「かんで……」
「歯ですり潰すことだな」
「……歯は、わたしにもある?」
「ある。口ん中の白くて堅いのがそれだ」
「歯はしろいの?」
ああ、なるほどと俺は納得した。
鏡がないのだ。
脅威の成長力で単語はある程度覚えることができているようだが、自分の姿を確認していないから、それを自分にあてはめることができないのだろう。
「ゆび、さして?」
そんな言葉に、一瞬迷いを覚えるが仕方がないか、と諦めて俺は藍音の口元に手をやった。
「口開けろ」
藍音は、素直に口を開く。
俺はその中に指を突っ込んだ。
「これだ。これがお前さんの歯だ」
俺は藍音の白い歯に指で触れて示した。
そして、この際二度も三度もというのはあれなので、口の中を一通り触れていく。
「これが舌な。こっちが歯茎、で、これより奥は喉になる。わかったか?」
俺は、手を離し、適当にズボンで手を拭いた。
藍音は、ぼんやりとながら頷く。
「……わかった」
それはよかった、とにへらと笑った俺の口に、
「ぬっ?」
あっさりと藍音の指が突っ込まれた。
「これが歯」
「ほうはな」
俺は口に指を突っ込まれたまま答える。
そうして、指が離れ、俺は苦笑いした。
「まったく、手のかかりそうな娘だ。……まあいいか、これからよろしくな」
そうして、俺の部屋には大きな鏡が運び込まれたのだった。
藍音が喋り始めてから、半月が経過。
「おはようさん」
「おはよう……、薬師」
「今日もだな。まずはゆっくりでいいから立ってみろ」
俺としては、長いこと動いていなかったから、日常への復帰作業、ようするにリハビリが必要だと思っていたが、それは妙な方向で必要になってしまった。
「落ち着いて足を一歩踏み出せ。振る手は上げ過ぎないようにな?」
「……ん」
瞬間、大きな音を立てて藍音の足が執務室の床を踏み抜いた。
そう、筋肉の衰えは何ら問題ないのだ。
人ではない天狗の膂力補正があるため、鍛えた天狗程ではないしろ、人間より高い力は備わっていた。
だから、その補正で動く分には問題ない。
むしろ、ある程度衰えただろう状態でこれなら多少鍛えただけでもそれなりになるだろう。
ただし、それは戦闘の領域の話であって、日常生活においては持て余す様な力だった。
「……ごめんなさい」
「いや、そっちは直しゃいい。ともかくもうちょい頑張ってみようぜ」
「はい」
まず、人間から変化した天狗は人間時の常識で動くことができるからものを壊してしまうようなことはない。
そして、普通の天狗はある程度力の加減を覚えたうえで生まれてくる。
だから、この状況は半欠け特有のものと言えるだろう。
藍音はいつでも全力全開。俺の手を取らせた時は骨が砕けるかと思ったし、俺を支えに立たせた時はさば折りにされるかと思った。
ただ、まあ、そんな俺の努力が実り、立つことはできるようになった。
あとは手の中のものを握りつぶさない、腕の中のものをへし折らない程度の加減は覚えたのだ。
しかし、それが複雑な動作になると難しい。
例えば、椅子の背もたれを支えに立ち上がろうとすると、背もたれを握りつぶしてしまう。
ようは、二つ以上の動作が絡むと途端に手加減できなくなるのだ。
確実に加減が効くのは体自体が静止していて末端だけでできることだけ。
それ故、俺が促した時とこうしてリハビリをするとき以外は結局あまり動かない。
じゃあ、俺がいないときはどう過ごしているか、と言えば、憐子さんの趣味で集めた無駄に多い蔵書を読んで過ごしている。
おかげ様で、知識だけは大したものだが、故にこそ早く体の動かし方を教えてやらないと、と思う。
意外と、俺の生活は、充実していた――。
◆◆◆◆◆◆◆◆
当時のことをそう語った俺に、由壱は感嘆の声を上げ、それを隣で聞いていた藍音は、実に恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
どうしたんだ、と問いかけると、藍音は恥ずかしそうに赤い横顔で語り始める。
「あの頃は……、その、私の黒歴史なのです」
「黒歴史、ねえ? あの頃の藍音も可愛かったんだけどな」
「あまり、そんなことを言わないでください……」
照れる藍音というのは珍しい。それを見て俺はなんとなく面白い気分になる。
そんな気分を断ち切ったのは、話を聞いていた由壱の言葉だった。
「そっか、別に最初から今の藍音さんって訳じゃないんだね。どうやって今の形に落ち着いたの?」
その言葉に、俺は頭を悩ませる。
はて、いつごろから藍音はこの状態に落ち着いたんだったか。
「確か、体がまともに動くようになってからだったな」
確認するように聞いた俺に、藍音が肯いた。
「そうですね。それからお手伝いを初めて……」
そう、そうだ。
「ある日帰ってきたらメイド服になってたんだった」
あの時は驚いた。
そして、予想外だったのは由壱もらしい。
「そんないきなりなの?」
「ああ」
「ちょっと詳しく聞かせてよ」
俺は応じて、話し始めることとする。
藍音が珍しく照れるようにして耳をふさいでいるのが可愛かったから、話の前にちょっと茶化して。
「前みたいに、薬師って呼んでくれないのかね?」
「……からかわないでください」
藍音がうちの蔵書を読みつくし、体もまともに動くようになった頃。
流石に暇だったらしい藍音は、俺の仕事を手伝い始めた。
仕事の出来自体は概ね完璧、むしろ俺の立つ瀬がない。
驚くほどの本を読み知識を吸収し続けた成果がありありと見えていた。
精々、知識だけなのが災いし、現場の知恵の様なものが欠ける傾向があるが、それはこれから学ぶことだ。
しかし、それにしてもだ。
こうして見ると、どうにも不思議な気分にとらわれる。
俺と藍音は似ている。そんな不思議な感覚だ。
憐子さんに拾われ、彼女の手伝いをした俺と、俺に拾われ今手伝いをしている藍音。
俺にとっての憐子さんと、まったく同じようなことをしているのだな、と思うとやはり、妙な感慨に襲われる。
後は、大きな変化と言えば、藍音が敬語を使い始めたことか。
俺を薬師様と呼ぶことに関しては違和感があるが、しかし、それも個性の表れだろう、と何も言わないことにした。
せっかく藍音が自ら能動的に手に入れたものだ。これを否定するのは自主性の欠如に繋がるんじゃないかと思った訳だな。
ともあれ、そんなこんなで藍音が順調に成長していたある日。
視察の名目で、訓練に参加していた俺が帰って来たその時。
「ただいまっと……、って藍音さん?」
俺は妙なものを目に納めてしまった。
「お帰りなさいませ、薬師様」
藍音だ。
いや、藍音なのはいいのだが、今日出る時は憐子さんが来ていたスーツの下を捲り、更に俺のYシャツを腕まくりして使っていたはずだ。
服も買いにいかねーとなー、とは思っていた。
思っていたが……。
蒼いエプロンドレスに頭の白いフリル。
「……なんでメイドやねん」
「これが従者の正装ですから」
眉ひとつ動かさず藍音は言った。
俺は、思わず眉間に指を当てて、何を言うべきか悩みこむ。
「えーと……、何処でそんな物を?」
「下詰神聖店といういかがわしげな店から」
なるほど、下詰神聖店か。
確かに、あれならあらゆる地形にとらわれず、求める人の前に現れることができる。
「あー……、代金は?」
「これから先面白いものが見れそうだから、代金はそれでいい、と」
なるほど、下詰の言いそうなことだ。
店が店故欲しいものがある人間は金に糸目を付けたりしない。だから、下詰神聖店の懐事情は常に温かいどころか地獄の業火もかくやという勢いだ。
それ故に、店主は金に拘らない。
「今日から、正式にメイドとして、誠心誠意お仕えしたいと思います」
質問は終わったのかとばかりに、藍音は言った。
俺には、断れるほどの理由が存在しなかった。
「あー……、うん。頼むわ」
正直に言って、藍音の作る飯は非常に美味かったのである。
それからまたしばらく。
そして、気が付けば、藍音は立派に生き物として成立していた。
精々、問題があるとすれば――、
「薬師様、煙草は体に毒です」
少々口うるさくなった所だろうか。
俺は、苦笑するほか無い。
「流石に肺癌じゃ天狗は死なねーよ」
言うのだが、藍音は聞く耳を持たなかった。
「それでも灰は黒くなります」
「黒いからってどうすんだよ」
別に天狗は肺が黒く立って死にはしないのだ。
まあ、煙草で肺癌っていうのは下詰から聞いた話で一般的ではないのだが。
「肺が黒いと……」
「黒いと?」
「困ります」
「……さいですか」
「はい」
「誰が困るんだ」
「主に私が」
「さいですか」
なにが、どのように困るのだろう。
まあ、藍音に言われちゃ仕方がない。
俺はその手で煙草を揉み消した。
「うーん……、口寂しいんだが?」
どうしてくれるんだ?
聞いた瞬間、藍音の唇が俺の唇と零距離に。
「むぐっ」
そして、驚いた無防備な俺に舌を侵入させる始末。
それこそ、余すとこなく舐られていく。
ナンテコッタイ汚された。
結局、解放されたのはゆっくり十数秒経ってからだ。
「如何ですか?」
「……正直すまんかった」
ここまで育てたのは俺なのだが――。
育て方を間違えた気がする。
まあ、でもいいだろう。
育て方を間違えたって、藍音は藍音だ。
俺と藍音の、そんな平和な一幕だ。
「煙草……、本当にやめたのですね」
「誰かさんが口うるせーからな」
「本当にやめていただけるとは思ってませんでした」
「ははっ、まーな」
「でも、何故?」
俺は、執務室で、窓を見つめながら藍音に問うた。
「なんで、人は煙草を吸うと思う?」
「さあ……、吸った経験がありませんので」
まあ、そりゃそうだ、と俺は苦笑一つ。
「落ち着くからさ」
千差万別かもしれないが、少なくとも、俺はそうだ。
でも、まあ。
もう吸うこたー、ねえだろう。
「それが、なにか?」
不思議そうに問う藍音に、俺は告げた。
「――煙草なんてなくたって、お前さんがいれば実に落ち着くのさ」
「そう、ですか――」
藍音が、俺に向けて微笑んだ気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
寝て覚めれば、いつもの布団。
懐かしい夢を見た、と俺は地獄の底で目を開く。
すると、眼前にいつものメイドの姿が映る。
彼女は、俺を覗き込むようにしてみるなり、恥ずかしげに逡巡して、こう言った。
「……おはよう、薬師」
まったく、粋なメイドである。
―――
と、言うことで出会い編でした。
後半半分は完全に蛇足ですが。
まあ、また、藍音の精神の成長というか、恋心の変化はまた別に、後々語らせていただくことになるかもです。