俺と鬼と賽の河原と。
朝起きたら、なぜか憐子さんと結婚していた。
「おはよう、あなた」
「……ん? えーっと……、あー……、ん?」
まあ、長い人生、こういうこともあるだろう。
其の番外編「結局、とどのつまり。最後に残るのは」
そこに横たわっていた現実は、署名済みの婚姻届。
……そうか。俺が寝ている間にそんなことがあったのか。
「……って、なんかおかしくないか?」
「そんなことはないな。きわめて自然な事象だろう」
寝ぼけた頭は今一つ働かないまま、目の前の現実を認めさせた。
そうか……、俺、結婚したのか。
「俺の字じゃない何かで署名された婚姻届に判まで押されてる以上は、そうなんだろうな」
ぼんやりと呟いた言葉は虚空へ消えた。
憐子さんは楽しげにこちらを見ている。
まあ、それもいいのかもしれない。
ただ――、何より眠かったのだ。
まあ、なんだかんだと言って生活がこれと言って変わったわけでもない。
劇的な変化もなく、家事はいつも通り藍音がこなしているし、居候は沢山いる。
憐子さん自身も家事の手伝いは増えたが、藍音の仕事を奪うほどではない。
やはり、結局あまり変わっていない。
精々、憐子さんとの肉体的触れ合い、いわゆるスキンシップというやつが増えて、それに釣られてか、他の面々ともそれが増えたのだが。
まあ、それまでだ。
「そうだ、あなた。膝枕しよう」
とりあえず、一つだけ変わった事実は、この女性が俺の妻であるということだけだ。
あなた、と俺を呼ぶたびにぞわぞわとした悪寒を俺の背筋に走らせる憐子さんが、俺の妻なのだ。
「そうだじゃない。いきなり何だ」
この背筋を走る悪寒が――、もしかしたら愛なのかもしれない。
「ほら、いいじゃないか。さあ」
ぽんぽんと、畳の上で正座している憐子さんは、己の太ももを叩いた。
確かに、まあ。
認めたくはないが、随分と寝心地がよさそうな膝枕である。
俺はずるずると這って、憐子さんの膝の上に頭を乗せた。
仰向けになっている俺の視界に、憐子さんが映る。
「ふふふ、ふふふふ」
「楽しそうだな」
にやにやと、いつもよりにやけ三割増しで憐子さんは笑っている。
「ああ」
いつもより穏やかな表情だ。
「寝心地はどうだ?」
「別に」
憐子さんの膝は柔らかくて、甘い匂いがした。
が、言うのは癪なので何も言わない。
すると、憐子さんはわかっている、と言わんばかりの笑みを見せる。
「素直じゃないな」
勝てそうにないから、俺は何も言わなかった。
「ああ、そうだ。耳掻きでもしようか?」
そして、俺が何も言わないから、憐子さんは思いついたように俺に問う。
俺は、無念そうに眼を瞑る。
「いや、いい」
「遠慮しなくてもいいぞ? なんせ、夫婦なんだから」
「遠慮とかではなく、だ。つい昨日、耳掻きしてて血出したばっかりなんだよ」
これ以上俺の耳を抉られたら困る、と俺は呟き、憐子さんは呆れたように笑った。
「ふふ、何だそれは。ああ、そうだ」
笑った後、思いついたように手を叩く。
「これからは私が耳かきをしてやろう。血が出ないように」
そして、憐子さんは俺の前髪を撫でて、顔を覗き込んだ。
「なあ、いいだろう?」
憐子さんの声が、俺の耳朶を優しく叩いている。
俺には、その声は余りにも甘く響いて、次第に意識が沈んでいく。
「おや、寝てしまったのかい?」
心のどこかで、まあ、別にそれでもいいんじゃないか、と先ほどの提案へ答えを返しつつ、俺は寝た。
眠かったのだ。眠かったのが悪い。
昨日徹夜でゲームしてたのが全ての原因である。
「――愛しているよ」
色々ともう、すべてそのせいだ。
「さて、こうして私たちは晴れて夫婦になったわけだが」
「釈然としないが。まあ頷いておこう」
布団の上、向き合って正座。
別にどうこうあったわけでもなく、二人勢いと雰囲気で正座。
「どうしたものだろうか」
唐突に、憐子さんが問う。
「いや、どうしたものって、知らんよ。憐子さんの方が詳しいんじゃないか?」
俺は結婚したことないからさっぱりだ、と肩を竦めた。
言った通り、結婚したこともないのでまったくさっぱりだ。
「ああ、別に夜の営みまで期待しているわけではないんだ。さすがにあなたにそれを期待するのは無謀だからな」
「助かる」
「だが、私も別に結婚有段者というわけでもない。バツイチでもないぞ」
「俺の知る限りでは独身だったな」
俺の言葉を、憐子さんが訂正する。
「今までは、な」
「そう、そしてこれからが問題だ」
「ふむ」
「さあ、どうする?」
さあ、どうする、と憐子さんは問う。
ようするに、夫婦らしいことってなんだ、と問うているのだ。
まあ、夫婦と言った割にさして何をしたわけでもないところから来た問いだろう。
しかし、夫婦らしいこと、ねえ。
よく考えてみれば、既に並みの男女ではやらない段階まで差し迫っているのではあるまいか、とふと思う。
馬乗りにされたり。
とうの昔に口付けまでは済ませているのだ。
「とりあえず……」
そこまで考えてあほらしくなってきた俺は。
「寝るか」
寝ることにした。
おもむろに布団を被る。
無論、枕は二つあった。
「手、出してくれても構わないよ?」
「無茶言うな」
俺はぶっきらぼうに呟いた。
そして、憐子さんの方を向く。
憐子さんは、仰向けに寝て、目を瞑っている。
なんとなく俺は、憐子さんの艶やかな髪に手を伸ばす。
さらさらとした感触が、手を通し、伝わってきた。
瞬間、唐突に憐子さんが寝がえりを打ってこちらを見る。
「どうした?」
その顔には笑み。
とりあえず、何もかも癪で、俺は関係ないことを口にした。
「はだけてんぞ」
そう、憐子さんの寝巻きは随分危ういところまではだけている。
しかし、直す気はないらしい。
「気がついたのさ。全裸より浴衣が肌蹴ている方が萌えると」
「そろそろ服をちゃんと着たほうがいいことに気が付いてくれ」
いやだ、と憐子さんは呟いてその豊満な体を俺に押し付けた。
人肌というものは、この季節において実に暖かい。
「ほら、あなたも」
「はだけさすな」
憐子さんの手が、不躾に俺の懐に侵入してくる。
抵抗空しく、俺の胸元も大きく開いた。
そして、首と床の間にするりと腕が入ったと思ったその瞬間。
「んっ……」
俺と憐子さんの距離はなくなった。
粘膜同士の接触、いわゆる接吻である。
これに至るまでの動作は囮だったということか。
完全にしてやられた。
唇が離れると同時、憐子さんはにやりと笑って舌舐めずり。
「そう、これはお休みのキスだな」
そして、彼女は悪戯っぽく笑みの形を変え。
「夫婦らしいだろう?」
そう言って俺の唇に指を触れさせる。
俺は半眼で呟いた。
「夫婦になる前もしてきたことあったろうに」
「まあ、一度や二度はな。だが、これからは毎日だ」
「毎日か」
「嫌か?」
俺は問われて、眉間に皺を寄せて、堅く目を瞑る。
そして。
「……好きにしてくれ」
溜息混じりに呟いた。
憐子さんは何も言わなかったが、今一度強く俺を抱きしめた。
そう、特別に何が変わったわけでもなく。
ただ、憐子さんとの距離が縮まっただけの毎日。
「ほら、背中を流しに来たぞ。薬師」
風呂場に乱入してくる件は、止めるより慣れた方がいいと俺は判断したからこの様だ。
「ただ、せめて布一枚くらいは装備してほしかったが」
「風呂場でバスタオルを巻くことのなんと不自然なことか。風呂場ではあらゆるすべての束縛から解放されるべきだ」
「憐子さんから解放される選択肢は?」
「それを望んでいない癖に」
そう言って、風呂用の椅子に座る俺に、憐子さんは抱きついてきた。
「お前はその選択肢があっても選んでくれない。だからお前は私の心を掴んで離してくれないというのに」
切なげに呟かれた言葉。
俺は憐子さんの台詞に似た言葉を返す。
「望んでいるのなら選ぶのも吝かじゃないが」
「それは意地悪な言葉だ」
「ならばその台詞そっくり返そう」
「そうか、意地悪か。お互い意地悪で足し引き零だな」
「そしたら何が残るってんだ」
「愛さ」
恥ずかしげもなく、憐子さんは言い切った。
俺は黙る。
「さて、このまま泡踊りと行こうか薬師」
「それは困る」
「そうか、じゃあ普通に行こう」
「嫌に素直だな」
「心外だな、私はいつも素直だよ」
「自分の心にか」
「良くわかってるじゃないか」
「そらーな」
「好きだよ薬師」
「いきなり何だ」
「ふふふ、日頃からの愛情表現が夫婦円満のコツだ」
▼▼▼▼▼▼
「まるで、茶番のような日々だ」
ぽつりと、俺は虚空に漏らした。
「その通り、茶番のような毎日さ」
聞かれていたことに気がついて、俺は後ろを振り向いた。
ソファに座る俺の後ろ、そこには憐子さんが立っている。
「終わらせるかい? 薬師」
「満足したのか?」
俺の聞き返す言葉に、憐子さんは笑って頷いた。
「ああ、いい夢を見せてもらった。だから、いつもどおりに戻っても問題ないぞ?」
「憐子さんはそれでいいのか?」
「薬師こそ。いい加減終わりにしたいと思ってるんじゃないかい?」
憐子さんの優しい問いに、俺は首を横に振る。
「別にんなこた思ってない」
すると、数秒の沈黙が舞い降りた。
はたして一体何だというのか。
憐子さんはどうしたのだろうかと俺が振り向こうとした瞬間、憐子さんの声が、耳朶を叩く。
「――私はお前を愛している」
「そいつは……」
俺が口をはさむ隙間もなく、憐子さんは続けた。
「寝起きの寝ぼけた顔が好きだ。常に飄々とした態度が好きだ。面倒見がいいところが好きだ。にやりと子供のように笑っている顔が好きだ。たまに格好いいところが好きだ。お前の一挙一動に至るまでが」
後ろから、俺を抱きしめて、彼女は言う。
「――愛おしい」
耳元で囁かれた言葉は、酷く甘くて思考を鈍らせる。
「今に至るまでの茶番で、幾度となく好きだ、愛してると私は言った」
「言ったな」
俺は鈍った思考のまま相槌を打つ。言った、言ったとも。
「だが、お前は一度も愛してるとも、好きだとも言いはしなかった」
ああ、そうだ。言わなかった。
「茶番は終わりにしよう。ごっこは終了。ただ一つ聞かせてくれ、お前は私をどう思っているんだい?」
憐子さんは、酷く寂しげに俺に問う。
わかっていた。これは酷く滑稽な茶番である。
そもそも地獄に婚姻届はない。あれこれと多量の世界から人が集まる地獄故に、男女の関係が婚姻だけでおさまるわけがない。
婚姻の概念がない世界の人間に、それを押しつける訳にもいかない。
その柔軟な代案として、家族登録があるのだ。家族登録後の、家族関係というものは登録者内で決めろ、ということだ。
要するに、式場があれども。
結婚しているかしていないかは、本人たちの意識一つ。そういうことだ。
だから、婚姻届の名と印鑑など無効である。そもそも書いた覚えがない。
故に茶番。
だが、しかし。
しかしである。
なるほど、婚姻届など存在しない。
俺はそれに署名した覚えがない。
わかっていた。
「あー……、くそ」
そう、わかっていたのだ。
わかっていた上で付き合ったのは――
「――好きだよ畜生」
そういうことである。
ああ、畜生。
遂に言った。俺も墓場行きか。
「あー……、好きだとも。愛しているさ。初恋だろうよ。悪いかね」
多分だが、そう、定かじゃないが、生前、数百年ほど前に既に初恋だった、気がする。
果てしなく不確定ながら……、どうせ結果は同じだ。
例え生前初恋じゃなかったら、今が初恋である。相手が同じなら、結果も同じ。
あまりに――、
恥ずかしすぎる。
だから言いたくなかったのだ。負けた気分でいっぱいである。
黙りこむ俺。
「……」
しかし、それにしても。
返事が返ってこない。
俺は幻覚に幻聴でも患っていたのだろうかと、あせり始めたころ。
憐子さんの声が聞こえた。
「……それは本当かい?」
「残念ながら。何度も言わせてくれるな恥ずかしい」
誠に遺憾ながらマジなのだ。一世一代である。
「そうか、本当か……」
憐子さんは噛みしめるように呟いて。
俺の頬を突いた。
「そうかそうか。ふふふ、そうか、ああ、そうか」
「気でも触れたか」
「うん、気でも触れるさ。ああ、気が触れないでどうする」
ただ、やたらに憐子さんは嬉しそうだった。
そして、嬉しそうに俺の頬を突き続ける。
「薬師の照れ屋さんめ」
「照れてない」
「好きだ、愛してる」
「いきなり何だ」
「言いたいんだ、仕方ない」
「それは、仕方ないな」
「薬師」
「なんだ」
「黙って呼ばせてくれ」
「……」
「薬師」
「……ああ」
「……薬師」
「……」
「そう照れるな、薬師」
「照れてない」
「嘘だな。顔が赤いぞ」
「赤くない」
「だが……」
「だが?」
「――そんなお前を愛している」
「……憐子」
「……いきなりどうしたんだ? もう……」
俺の腕の中の憐子さんは、照れたように笑う。
「式、いつにする?」
「……お前は。いつもいきなりだな」
「憐子さんほどじゃない」
「そうか?」
「……なあ、憐子」
「どうした?」
「黙って呼ばせろ」
「……ああ、喜んで」
「憐子」
「……うん」
「先生」
「ああ」
「憐子さん」
「うん」
「憐子」
「……うん」
「憐子」
「――ああ、そうだ。私が憐子で、お前が薬師だ」
まあ、なんというか。
まったくもってその通りだ。
「憐子さん」
「ふう、やっぱりお前は意地悪だ」
そりゃあそうだ。
「――愛しか残ってないような恥ずかしい状況は御免だからな」
―――
結局最後には愛しか残らないんじゃねえかっ、幸せに塗れて爆死しろっ!
ということで、感想返信から派生した、憐子さんIFでした。
ああ、なるほど、薬師からツンをとったらデレしか残らないということですかそうですか。